コンテンツへスキップ 投稿日:2025年1月10日/更新日:2025年2月9日

世の光であるクリスチャンの役割は?

世の光とクリスチャンのミッション

「神の民であるクリスチャンは世の光である」と、キリストはこの世でのクリスチャンの役割を説明しています。1世紀のイスラエルの文化を考慮にいれて、キリストの真意をより深く理解する必要があります。

クリスチャンのID、世の光

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。マタイ5章14-16節 聖書協会

都会の夜は明るく星など見えません。人工的な明かりなどまったくない山奥に行って、キャンプに行ったことはありますか。都会で生まれ育った私はあまり経験がありません。それでも一度だけキャンプに行き、数百の星が夜空に輝いていたのを見ました。一般的な現代人にとって、このような経験は少なくなっています。ですから、キリストが言った意味を本当に理解するのは難しいかもしれません。

1世紀の文化ではランプの明かりは、非常に貴重な存在でした。ランプの明かりがなければ、夜は真っ暗です。今のようにスイッチを入れれば、電気の明かりがいつもある時代ではありません。その当時のすべての人々が、明かりを持っていたわけではありません。1世紀の人々は、暗闇がどんなものか本当に知っていたのです。明かりの重要さも、私たちよりも知っていたでしょう。自然災害があって停電になって初めて、明かりの重要さに気づくくらいです。その重要な明かりに、キリストは神の民をたとえています。

もう一つ背景が旧約聖書の預言にあります。旧約聖書には、イスラエルの人々が諸国の光としてたてられたと書かれています(イザヤ42章6節)。ユダヤ人の一般庶民でも光の概念を知っていました。それは、1世紀前後のユダヤ教の文献から読みとれます。それらの文献には、光と暗闇のテーマが多くあります。光は神を象徴しており、暗闇は悪を象徴しています。このような背景があり、イエス・キリストは、主に従ってくるユダヤ人たちに「あなたたちは世の光である」と言ったのです。

21世紀のクリスチャンにも、世の光というミッションが与えられているのです。私たちはどのようにこのミッションを全う出来るのでしょうか。

キリストは世の光

私たちは、自分たちが世の光であると誇ることなどできないのです。なぜでしょうか。たとえクリスチャンであっても私たち人間は、世の光として輝く力も知恵を元々と持っていないからです。

初めに言があった。言は神と共にあった。言葉は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。ヨハネ1章1‐5節 聖書協会

言である方が人となられ、イエス・キリストととして天から降りてきました。この方には、命の光があります。主キリストは、神の光を輝かせるために、天から来ました。キリストは、命の源であり、暗闇の中で本当の光を出しているのです。

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」ヨハネ8章12節 聖書協会

イエス・キリストは、世の光です。私たちは、本当の光から光を受けて反射しているに過ぎません。キリストと神の民の関係は、太陽と月の関係に似ています。月は自分で輝くことは出来ません。月自体に光を放つ力はないのです。太陽の光を受けて光を放っているだけです。神の民であるクリスチャンも同じです。キリストから離れては、クリスチャンは何もできないのです。

主イエス・キリストは私たちを暗闇から引き上げてくれた

私たちは、主キリストに出会う前に、暗闇の中を歩いていました。どこに行くかも、どこから来たのかも、何の目的を持って生きているかも知らずにいました。私たちの行いが、私たち自身を苦しめていました。惨めな悲しい人生を生きていました。しかし、主キリストを信じた時、主が私たちを暗闇から引き上げてくれました。これは神様の恵みと憐れみです。今、クリスチャンは、神様が恵みによって与えてくれた世の光という新しいIDをいただいています。

これはかっこよく聞こえますが、実際に理解して実践しているでしょうか。このような質問をする理由は、このIDには、大きな責任とミッションがいっしょになって、パッケージとして、私たちはいただいているからです。

キリストから受けている光は、神の恵みです。この人生で必要な物を与えてくれるすべての恵みです。私たちは、周囲の人と神様の恵みを分かち合うように求められています。その結果、人々は神様の恵みを経験することができるからです。

しかし、あるクリスチャンはまったく違った物の見方をしています。私たちが世の光と考えると、スポットライトを浴びているような感じを持つ人もいるかも知れません。クリスチャンではない人たちよりも自分は恵みを受けているのだから、優れていると感じてしまう人もいます。

しかし、これはまったく間違った考え方です。キリストは、私たちが他の人々、キリストを信じていない人々よりも優れているなどと教えてはいません。私たちが世の光であるという真理は、私たちの自分勝手な思いとは違います。

主キリストと同じように、世の光として人々に仕える事が与えられています。世の光の役割を受け入れるには、純粋な信仰が必要です。主キリストが、どのように世の光としての役割を全うしたのか、考えてみましょう。

神様は、人生で私たちが必要な物を自由に与えて下さっています。これが神様の恵みです。もっとたくさんの物を神様から受けていれば、もっと分かち合うことが期待されています。これがキリスト者の生き方のエッセンスです。

主キリストは、世の光として神様の恵みを人々に分かち与えました。神様がどれほど愛しているかを教えたのです。人々に神様の恵みを経験させたのです。私たちのミッションも基本的に同じです。

善い行いをする目的

善い行いをする目的は何でしょうか。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」とキリストは言っています。

暗闇の中で光を輝かせる目的は、人々が神様の恵みを経験して神様を褒め称えるようになるためです。私たちが親切だから、寛大であるからといって、私たちが褒められる必要はありません。神様だけが認められ、褒め称えられればいいのです。私たちは、ただ単に神様の恵みを配達する配達人であり、神様の道具にすぎません。

私たちの命は一時的な物ですが、神様は永遠の方です。この世での私たちの存在は、時間が限られていますが、神様には時間の制限などありません。この地上で生かされているキリスト者のミッションは、神様に仕え人々に仕えることです。これが世の光のミッションです。

人間社会では、それぞれの時代に、神様はキリスト者であるキリストの弟子を使って、すべての人間にキリストの福音を伝えています。2025年も、このミッションは続きます。

善い行いをする間違った動機

私たちが善い行いをする動機は、神様が褒め称えるためです。これだけが正しい理由であり、正しい動機です。しかし、間違った動機もあるのです。

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。マタイ6章1-4節 聖書協会

このような邪悪な動機は、私たちの心に入り込んできます。いくら隠そうとしても神様は知っています。私たちは、時々、励ましが必要です。人に褒められたいと思う時があります。しかし、これもある一定の限度を超えると、私たちは自分自身をだますことになってしまいます。

主キリストは、神様が褒め称えられるように、人々に自分の善い行いを見せなさいと教えています。一方、善い行いは人に知られないように行いなさいと教えています。これらの2つの命令は、一見、相反するように思えます。主キリストは、私たちの動機が何であるかを問いかけているのです。健全な動機によって、神様が褒め称えられるようにと祈り信じ善行を行いましょう。

キリストの弟子のミッション

世の光として生きるミッションを考える時、主キリストが世の光としてやらなかったことを一つ覚えておきましょう。

主キリストは、人によって差別することはありませんでした。お金持ちの人と貧乏の人、教育がある人と教育がない人、人に好かれている人と嫌わられている人、ユダヤ人と異邦人、善意のある人と悪意を持っている人、誰一人として差別などしませんでした。すべての人を、神様の恵みによって同じように扱っていました。この態度は、キリストの弟子として私たちが持つべきものでしょう。

自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。ルカ6章32-36節 聖書協会

人が誰であろうと善を尽くすーーーこれはとっても大きなチャレンジであり、大変なプロジェクトです。言うのは簡単ですが、実践するのは難しいのです。このミッションを実践するには、聖霊なる神様の導きと力が必要です。聖霊の力を受け入れる純粋な信仰が必要です。

キリストが警告しているのを覚えていますか。塩が塩気をなくしたら何の役にも立たないと。キリストが与えて下さった光を失う事も可能です。キリストの弟子として、この光を心に保ちたいものです。どのようにキリストの光を心を保つことができるのでしょうか。

善い行いをし続けることによってできます。これは、キリストの弟子として生きるならば、選択の余地はありません。キリストの命令を無視して、綱渡りのような危ない人生を歩む必要はありません。むしろそのような綱渡り人生はやめるべきです。キリストの教えに従い何であろうと良い行いをし続けるのです。これが、キリストの弟子として生きる肝心要です。

光の中を歩む

キリストは言いました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」これはキリストの約束です。しかし、この世の光と暗闇、善と悪を考える時、この世の暗闇、邪悪の力の現実を、私たちがこの世で発信している光よりも大きいと感じます。邪悪の力は、私たちがこの世の光であることよりも、絶望的に大きいと感じることがあります。しかし、これは霊的な戦いなのです。

主キリストは、常に霊的な戦いをしていました。砂漠で40日間、悪魔によって誘惑を受けました。十字架に行かないようにと、悪魔によって誘惑を受けました。だから、キリスト者の生活で誘惑は常にあるものです。すべての信仰深いキリストの弟子は、常に霊的な戦いで邪悪な力に対して戦っています。

キリストの教えに心を向けて、静かに祈りましょう。忙しい生活のスケジュールの中で、常にキリストを心に刻み、神様の恵みを感じるようにしましょう。キリストによって、私たちは生かされています。主キリストは、私たちを支えてくださると約束しています。聖霊によって満たし、力と知恵を与えてくださいます。

新しい天と地においては、完全な完璧な光があります。その日が来るのを待ちましょう。その時が来るまで、私たちは世の光として生きて、日々切磋琢磨して成長して生きましょう。

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