人の死の備えと主の再臨というテーマで、御茶の水キリストの教会 鈴木敦博さんに寄稿していただきました。
コロナ禍の世の中を観察して
私も、2週間以上前の7月8日に感染者に接触したので、念のため自宅隔離をして、PCR検査も実施しましたが、結果的に、幸いにも感染していませんでした。PCR検査の結果も、1日で出るはずのところ、3日もかかってしまい、検査の分析作業も遅れが出ているようでした。感染者に接触した時にもう一人いた友人は、接触から3日後に発熱と咳が出て、1週間ほどつらかったようです。最初の感染者も、次の感染者も、東大医学部卒業のお医者さんですが、そのように感染防止の知識がある医療者ですらも感染してしまうところが、コロナの怖いところですね。
この1年、多くの兄弟姉妹が天に召されています。私たちクリスチャンは、ピリピ人への手紙の3章20節に「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」というみ言葉を信じて、いつか、天において再会の望みを持っています。今日は、あえて、イザヤ書から、私たちの備えを考えてみたいと思います。
人の死の備えと主の再臨
私たち、全ての人間は、この世において罪を犯します。主イエスを除いて、私だけは特別、ということはありません。私たちは、毎日のように罪を犯し、毎日のように赦されています。私たちの地上での人生はこのようなことの繰り返しです。全く罪のない人はいません。
しかし、私たちが天に召されると、地上ではこれ以上罪を犯すことはありませんし、これ以上、良いことをすることもできません。その時、「地上での」新たな罪は終わり、それまでの人生全体に思いが馳せられます。
そして、誰もが、自分の人生の清算の時、審判の時であると思うのではないでしょうか。これはクリスチャンでなくとも、誰にでも同じではないかと思います。まさに天に召されるいまわの時、自分の人生を振り返ります。
そして、なにより、たった一人で天に召される不安から、死の床において、誰もが、イザヤ書33章2節に書かれているように「主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。」と祈るのではないでしょうか。
ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。(イザ43・1‐2))
神様を信じる者は、神様によって、主イエスキリストによって、既にその罪は贖われており、その罪は赦されています。
そして、イザヤ書43章25節に書かれているように、神様は「わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐいあなたの罪を思い出さないことにする」と約束されています。
ですから、神様を恐れ、神様を信じる私たちが、天に召されていく途中で、川に押し流されたり、火で焼き尽くされたりすることはありません。間違いなく、天の国に招き入れられるのだと思います。
イザヤ書の41章10節には「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」と書かれています。神様が守って下さるのは地上での日々の間だけではありません。いつか、私たちが天に召される時にも、神様は力強く守り、道を備えて下さいます。その時は、第2コリントの6章に書かれているように、まさに「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」ではないでしょうか。天に帰る日は、私たちの生涯で、最もたくさんの恵みを頂ける日なのではないでしょうか。
アメリカの歌で、「私が生まれた時、私は泣いていて、まわりの人々は笑っていた。私が死ぬ時、まわりの人は泣いていたが、私は笑っていた」という歌があるそうです。生まれた時には私は泣いていて、まわりの人々は笑っていたけど、私が死ぬ時、まわりの人は泣いていたが、私は笑っていた、というのは丁度逆ですね。でも、真理を突いた言葉ではないでしょうか。
私たちは、その時も、神様が右手を堅く握って下さり、天の国へ導いて下さるので、笑って天の国に旅立つことができるのではないでしょうか。出生と召天は、たったひとりで主なる神様に向き合う時ではないでしょうか。
クリスチャンの葬儀において
私たち、クリスチャンは、ご葬儀で、讃美歌を歌います。皆が静かに悲しんでいる葬儀場で歌を歌うなんてとんでもないと感じる一般の方々もおられるかもしれません。しかし、ご葬儀の時は、地上での罪が終了し、地上での罪が全て赦され、天国に入れて頂ける喜びの時であり、喜びと感謝の心が湧き出てくるのが、ご葬儀での讃美歌であると思います。それは、天に召された方の喜びの声を、また、感謝の声を、私たち参列者が代弁しているのではないでしょうか。私たちは、死んで終わりではないという希望を持っています。
主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ40・31)
このみ言葉は、生きている者だけに向けた言葉でしょうか?いや、むしろ、いつか、地上での人生を終えて、私たちが、まさに天に召されて行く時にも向けられた言葉ではないでしょうか。イザヤ書には、最初から最後まで神様の勝利が書かれていますが、その勝利は、地上における勝利だけでなく、死に勝つ勝利でもあるのだと思います。
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死を経験していないけれど・・・
私たちは、まだ、死を経験していません。ですから、どうしても不安があります。しかし、イザヤ書41章13節では、「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから。」と、私たちを力づけて下さいます。
神様が右手を堅く握って下さり、力づけて下さるからこそ、私たちは、地上での人生も、不安で悩み込むことなく、有意義な人生を、力強く生きていけるのではないでしょうか。そして、天に召される日を待つことができるのではないでしょうか。
私たちは、最後の日の救いの確信があるからこそ、それまでの地上での日々を平安の中で過ごせるのです。聖書の言葉は、地上での日々の生活に加え、私たちが天に召される時にも、何も心配することはないと、力強く語っています。
いつか、自分の地上での命が永遠ではないと気付かされたとき、私たちは平安ではいられません。死は、必ず、誰にでもやってきます。
その陰が見えた時、はじめて、恐れおののき、たじろぐのではなく、私たちを造り、私たちに永遠の命を備えて下さる神様を知り、予め、死への備えをしておくことが、私たちには大切ではないでしょうか。その備えがあるからこそ、地上での日々を有意義に過ごすことができるのではないでしょうか。
ここのところ、安倍元首相の事件に関連して、私たちとは異なる宗教について、新聞やテレビで報道されています。いつかは、誰もがこの世を去ることには間違いありません。その事実を、人を脅かすために使うのは大きな間違いであると思います。私たちの本当の神様は、その時を安らぎの時として備えて下さっています。神様は、私たちの心配を拭い、右手を堅く握り、安心せよと力づけて下さっているのです。この確信が、私たちの信仰の中心です。そのために必要なのは、主イエスの十字架による贖いを信じることだけです。 お金は全くいりません。
誠に、既に天に召された兄弟姉妹のキリスト者としての一生は、十分に備えができた、神様の栄光を現わす人生であったと思います。天に召された兄弟姉妹が、神様に右手を堅く握られ、力づけられ、道を外れることなく、天の国に導かれていくところを、私たちは見ています。天に召された兄弟姉妹は、この召天の時をもって、そのお姿で、神様の栄光を現わしておられるのではないでしょうか。
結論
私たちは、眼に見えない神様の、眼に見える力を、天に召された兄弟姉妹の召天の姿を通して見ることができます。天に召された兄弟姉妹が、キリスト者として人生を全うされたそのお姿は、私たちの励みであり、今、平安にあるお姿は私たちへの慰めです。
残された私たちは、先に天に召された兄弟姉妹が身をもって示して下さったお姿を見て、その兄弟姉妹にならい、私たち自身の備えをしたいと思います。そして、そうすることが、先に天に召された兄弟姉妹に最も喜んで頂ける事なのではないでしょうか。
もうすぐお盆の時期で、この世の人たちは天に召された方々を忍ぶ時期です。
しかし、私たちは、単に忍ぶだけではなく、召天されたそのお姿から、主が栄光を現わされているのを見ることができ、天のすまいにて平安と憩いの時にあることを確信し、兄弟姉妹と再会できるという希望を思い起こす時です。そして、死に勝つ力のある主イエスの栄光を再確認する時なのです。この世の最後の日は、人生最大の恵みの時、救いの日です。
お祈り
ご在天の父なる神様、私たちは、この世の良い事や悪い事に気を取られ、右往左往する者でありますが、生まれる時と召天する時に、たったひとりで神様と正面から向き合います。その時に悔やむ者ではなく、神様からよしとされ、平安の中で神様にお委ねできる者として下さい。また、先に召された兄弟姉妹のお姿から、畏れるべき主なる神様を知り、主の前におそれかしこむ者として下さい。そして、先に召された兄弟姉妹が、平安の中にある姿を見て、私たちの理解を超えた命の中に、主のみわざを覚えます。全てを主なる神様にお委ねして、救い主と信じます主イエスキリストのお名前によってお祈ります。