コンテンツへスキップ 投稿日:2025年1月25日/更新日:2025年2月9日

信仰義認の法則とは?

悔い改めて浜辺で一人で祈る男性

神様は、主イエス・キリストを信じる者を神様の子供として受け入れてくださいます。ローマ3章21-28節をもとに信仰義認の法則と信仰によって生き成長することについて考えてみます。

信仰義認の法則

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。ローマ3章21-28節 聖書協会

この聖句も少し難しいことを言っていると聞こえるかもしれませんが、肝心要の聖句は、3章22節です。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」

神様はイエス・キリストを信じる者を、神様の子供として受け入れるのです。神様は良い行いをする善人を受け入れるのではなく、主イエス・キリストを信じ主によって生きる人を受け入れるのです。これが信仰義認の法則です。

信じれば救われるというフレーズが独り歩きして、誤解されやすいのも確かです。信じるだけだったら悪霊さえも信じているのです(ヤコブ2章19節)。主イエス・キリストの存在と権威を信じるというのは、その人の生き方に現れます。

では信仰とは何でしょうか。この信仰の法則は永遠の法則ですが、信仰によって生きる意味と、クリスチャンは信仰に成長することも、ごいっしょに考えてみましょう。

信仰とは何でしょうか

信仰とは何でしょうか。へブル11章1節、6節を読んでみましょう。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。…信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。へブル11章1、6節 聖書協会

この聖句は信仰とは何かを説明しています。信仰とは、目に見えないものを見る心の目です。信仰によって、私たちは神様の存在と権威に確信を持つのです。しかし、これは盲目的な信仰でしょうか。宗教団体に言われるがままに、盲目的に信じているのでしょうか。

主イエス・キリストは、私たちに言いました。「心を騒がせてなならない。神を信じわたしをも信じなさい」と言っています。私たちは、主イエス・キリストの招きに応えているのです。

私たち、罪人にとって信じることはそんなに簡単なことではありません。大人になるに従い、人を疑うようになります。まして今の時代の宗教と言えば、怖いものばかりです。数百万の人たちが騙されているのです。こんな社会に生きている私たちに、主イエス・キリストは、直接やさしい声をかけ、私たちを招いています。 この招きに私たちは応えています。

信仰とは、神様の御心と御国を求めることです。私たちはこの地上で生きていますから、地上にあることを求めがちです。しかし、天にいる主キリストを信じる人は、天にあるものを求めます。この地上で、自分自身の人生においても、神様の御心が行われることを求めるのです。信仰とは、主イエス・キリストの教えによって生きること、その生き方を指しているのです。

アブラハムの信仰

先ほど、キリストを信じる者は、神様の子供として受け入れられることが、信仰の法則であると書きました。実は、この信仰の法則は、最初の人間アダムとエバが創造された時から神様の御心です。 しかし、その信仰の法則が具体的に人に示されたのでは、約5000年前です。

では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。ローマ4章1節―3節 聖書協会

パウロは、律法が与えられる前のアブラハムの信仰を例にとり、人は信仰によって義とされるという信仰義認の原則を説明しているのです。アブラハムは、ユダヤ人にとって信仰の父と呼ばれた人ですから、1世紀のユダヤ人にも説得力があったでしょう。

しかし、古代中東で5000年も前に生きたアブラハムが神様を信じたことと、私たち現代人とどのような関係があるのでしょうか。

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」創世記12章1節‐4節 聖書協会 

神様は、アブラハムに自分の故郷を離れ神様が導く所に行きなさいと言います。アブラハムは、どこへ行くかも知らずして、神様の御言葉に従ったのです。先ほど読んだローマの手紙4章では、このアブラハムの信仰が認められたと書かれています。信仰の法則が、アブラハムの信仰に示されているのです。

もう一つ重要な意味が、12章3節にあります。すべての民族がアブラハムを通して祝福を受けるという聖句です。アブラハムの子孫であるイエス・キリストを通して、すべての民族が神様の祝福を受けるという約束が、この聖句に示されています。主キリストを信じるすべての人が、民族や国籍を問わず神様の祝福を受けると預言されているのです。

信仰によって生きるとは?

では信仰によって生きるとはどんな意味でしょうか。2コリント4章16節-5章1節を読んでみます。私たちの肉体は弱っていきます。2022年が過ぎて、すでに2023年2月が終わろうしています。毎年を年をとって衰えていくのです。しかし、信仰によって私たちの心は強められます。なぜなら私たちは、目に見えるものに頼って生きているのではなく、天にいらっしゃる目に見えない神様を見あげて生きているからです。

この信仰は盲目的な信仰ではありません。なぜなら今もすべてを支配しているイエス・キリストが約束しているからです。主イエス様が私たちを招き、私たちはその招きに応えました。その結果、私たちは、主イエス様と力強い関係を持っているのです。

コリント5章6節-10節を読んでみましょう。この地上で血肉の肉体をいただいて生きていますが、いつか私たちは天に召される時が来ます。死を迎えます。血肉のない天に導かれます。それまで私たちは天にいる主イエス様から離れています。それまでの間、私たちはこの混迷した世の中で、信仰によって生きるのです。

神に喜ばれるために、主イエス様を信じて生きる

2コリント5章14節-15節を読んでみましょう。天にいても地上にいても、私たちは主イエス様の喜びになるように生きるように命令されています。この命は、主イエス様からいただいている贈り物です。この贈り物を主イエス様のために使って、この命を神様にささげるのです。

クリスチャンは、誰一人自分のためにだけに生きているのではありません。、主イエス様のために生きて、主イエス様と共に生きて、他のクリスチャンのために生きているのです。

主イエス様だけを信じる信仰は、とっても大切。人間の宗教指導者を信じる人は、必ずがっかりすることになります。人間のリーダーがパーフェクトなんてことはあり得ません。どんなに素晴らしい説教をしていても、どんなにわかりやすく聖書を読み解いても、その人がパーフェクトなんてことはあり得ません。なぜなら、、、、人間は必ず失敗するからです。期待外れになります。

主イエス様が人生の礎だから、私たちは主イエス様を信じます。人生の土台だから、主イエス様だけを信じます。主イエス様に人生の軸足を置いているから、主イエス様だけを信じます。 一方、主イエス様は、私たちのすべてを知っています。知っているからこそ、一人一人に委ねているのです。一人一人に任せているのです。ある意味、信頼されているのです。主イエス様の信頼にこたえるために、一緒に成長して生きましょう。

ローマの手紙からのメッセージ

ローマ人への手紙の歴史的文化的背景古代ローマ教会の成り立ち信仰によって互いに励まし合う神様は人を裁かず待っている神様の裁きの基準罪深い人間にも希望がある新しい契約の要信仰義認の法則キリストによって成長するクリスチャンの違った意見

「信仰義認の法則とは?」への2件のフィードバック

  1. アーメン。主は私の羊飼い。私は、とぼしいことがありません(詩篇23:1)。神の御教えは今日も私達に安全で平安な道へと教えてくださいます。感謝します。

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