人間が神を礼拝せずに偶像崇拝する理由について考えてみます。偶像崇拝は、いつの時代でもどこの地域にでもあります。日本においては、偶像崇拝が土着宗教として深く根付いています。何の疑いもなく像に対して手を合わせ拝んでいます。
神様の存在、権威、力、知恵は明らか
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。ローマの手紙1章18-25節 聖書協会
神様の存在、権威、力、知恵は、すべての人間に明らかである、と書かれています。どのように私たちは、神様の存在を知ることができるのでしょうか。被造物によって明らかと書かれています。神様が造ったこの完璧な自然が、神様の存在、権威、力、知恵を表しているのです。
私たちの周りの自然を見回してみましょう。神様の知恵と力が、隠されています。神様が、自然を通して、実際に働いていることを示しているのです。人間には造ることができない不思議な自然があるのに、誰もが気づかされます。神様が造った自然の中では、無駄になるものなど一つもありません。完全な循環サイクルが成されています。海でも陸でも、動植物たちはいずれ死に、そして土に返ります。微生物がそれを食べるようになっています。雨が降り、草が生え、草食動物が草を食べ、肉食動物が草食動物を食べるというふうに、すべてリサイクルされているのです。
満天の星を見て、私たちは驚きの声を上げるでしょう。クリスマス・シーズンに入り、あちこちでイルミネーションが飾られています。どんなに美しいイルミネーションでも、満点の星には比べ物にはなりません。満天の星を見て、星占いという占いシステムを、人間は造り出しました。生まれた年によって、人の運命が決まっているとされているのです。
これだけ、神様の不思議な業を見ているのだから、私たち人間には言い訳はできません。本来ならば、神様を信じて当然です。すべての人間には、霊的なDNAが埋め込まれています。さらに、神様の不思議な業を見れば、自然と神様を礼拝するべきでしょう。言い訳の余地は、私たちには100%ありません。
人間が偶像崇拝する理由
人間は、神を知っているはずなのに、神を崇めず自然を礼拝し、人間が自ら造った偶像を拝んでいます。時代を問わず、万国共通の偶像崇拝の慣習があります。なぜ人間は、神を礼拝せずに偶像を崇拝するのでしょうか。
人間は、創造主なる神様によって霊的な存在として創られ、本来、神との関係を持っているのです。ところが自分が知恵者であると考え、自分で偶像を創ってそれを拝むようになってしまいました。人間の心の中心は、自分自身に向けられ自己中心的になっているのです。ですから、自分が創ったものを拝んでいても何も不思議には思わないのです。
完全な自然が神の存在証明、外部リンク Wikipedia 偶像礼拝
偶像崇拝の愚かさ
このように自然が、神の力と知恵を示しているのに、人間は像に手を合わせ拝んでいます。人間は自分が賢い知恵ある存在だと考えているからです。
神様の恵みによって、人間は科学を発達させ、病気を治療して、超便利な世界をつくり、動植物を支配しています。しかし、そこには、自分が賢いと思ってしまう罠があります。人間の能力を信じて、神様を信じない傲慢さがあります。人間の能力を、偶像にしてしまっています。人間を創造なさった創造主から離れて生きて、どのような生き方が出来るのでしょうか。
ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授が、インタービューの中で、人間の身体の仕組み、免疫の仕組みを考えると、「神業としか思えない」と証言しています。つまり、わからないと証言しているのです。いくら科学が発達しても、神様の創造の業には、驚くしかないのです。
先ほども言いましが、人間には神様を知る霊的DNAが宿っています。しかし、人間は間違った方法で神様を拝もうとしているのです。古今東西変わらぬ、偶像礼拝です。私たち日本人は、美しい富士山を見て「素晴らしい」と感嘆の声を上げます。そして富士山を創造してくださった神様を拝まず、富士山を拝んでしまっています。
まったく科学技術のなかった約2700年も前に、イスラエルで預言したイザヤが、偶像礼拝の愚かさについて次のように言っています。
偶像を形づくる者は皆、無力で彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。無力な神を造り役に立たない偶像を鋳る者はすべてその仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。木工は寸法を計り、石筆で図を描きのみで削り、コンパスで図を描き人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り神殿に置く。彼は林の中で力を尽くし樅を切り、柏や樫の木を選び、また、樅の木を植え、雨が育てるのを待つ。 木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると、「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う。「お救いください、あなたはわたしの神」と。彼らは悟ることもなく、理解することもない。目はふさがれていて見えず、心もふさがれていて、目覚めることはない。反省することもなく、知識も英知もなく、「わたしは半分を燃やして火にし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。残りの木で忌むべきものを造ったり、木の切れ端を拝んだりできようか」とは言わない。彼は灰を食らい惑わされた心は、その道を誤らせる。彼は自分の魂を救うことができず「わたしの右の手にあるのは偽りではないか」とすら言わない。イザヤ44章9-20節 聖書協会
人間の愚かさはいつの時代も変わりがないようです。同時に、神の教えも時代を超えて文化を超えて、変わりない真理を私たち人間に伝えています。科学が発達して、「現代人は単なる物質が、たとえば石や木が人の祈りを聞いたりすることなどありえない」と考えそうなそうものですが、そうは行かないの人間の性でしょうか。
上記の聖句が示すまでもなく、偶像礼拝とは自分が今まで踏みつけていた石や、薪として使っている木で像を造ってその像に拝んでいるのです。造った偶像に、作者の魂と心が乗り移っているかのような報道を、公共放送のNHKがしています。日本の文化だから・・・と言ってしまえば良いのでしょうか。
東京の赤坂にある日枝神社では、神社の神に感謝の意を示すために、箸を供養するそうです。それも、その箸は木製限定です。環境問題になりますから、プラスチックの箸はお焚きげ出来ません。でもプラスチックの箸でも人間によって使われてきたわけですから、供養されるべきではないか、と管理人は思います。
人間は、それぞれの地域において、自分たちの都合に合わせてある行いに宗教的な意味合いを持たせて、その儀式を神聖なるものとして拝んでいます。どこの文化でも、そのような宗教的儀式に疑問さえ持たない・・・・これが不思議でなりません。
物質には命はない、話さない、聞かない、何も理解できないからです。確かにこの世の中には、霊的な力が働いています。人間を騙そうとする悪霊の力です。悪魔であるサタンは、遠い昔から様々な方法で、人間たちを創造主なる神様から離れさせようとしています。世界中で多くの迷信が信じられ、ヒンズー教であれ仏教であれ、あるいはキリスト教であれ偶像礼拝が公に行われています。
鰯の頭も信心からの諺

「鰯の頭も信心から」という諺があります。節分の時に悪霊を追い払うために、鰯の頭を飾った宗教的慣習から、この諺が生まれました。管理人は、偶像礼拝を揶揄している意味として捉えています。
しかし、信仰心を持った人が、普通の力以上の力を持つたとえとしても使われます。それを考えると、カルト宗教に入っている人たちが、すごいエネルギーを持っている事も納得がいくのではないでしょうか。「鰯の頭も信心から」ではなくて、「カルトも信心から」と言えないでしょうか。カルト宗教の盲目的な信心と群像礼拝の盲目的な信心とでは、何が違うのでしょうか。それ程、大差はないように管理人には思えます。
偶像礼拝の愚かさに、なぜ人は気づかないのでしょうか。それは意外と単純な理由かもしれません。「大勢の人たちが、周りにいるみんながやっているから、きっと正しい」と思うのではないでしょうか。
管理人が子供の頃、「赤信号、管理人が子供の頃、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とテレビで流れていました。みんながやっていれば、「何となくそれが正しいんだ」と思ってしまうのが人間の弱さでもあります。
あるテレビ番組で随分前ですが、100人位の集団が「~が来たぞ。逃げろ」と言うのを聞いた数名の人たちは、その集団に釣られていっしょに行ってしまったのを見たことがあります。これはある意味、人間の弱さを試す実験とも言えます。読者の皆様も見たことはあるでしょうか。偶像礼拝とは、まさにこのような現象だと管理人には思えて仕方ありません。
イエス・キリストを知り真実の神を知る
そこで私たちには、朗報があります。神様には、敗者復活戦制度があるのです。今度は、主イエス・キリストという人生の監督・コーチが、この人生の生き方を教えてくれます。人間の知恵に頼る必要はありません。この方の教える通りに生きていけば、必ず勝利が与えられます。必ず天の御国に行けます。誰でも勝利の杯をいただけるのです。学歴や頭の良さなど、まったく関係ありません。
私たちが目にする自然の摂理に、神様の力と知恵が示されています。大自然の美しさに驚くだけではなく、この自然を創造した真実の神様を礼拝しましょう。主イエス・キリストが、神様がどんなお方であるかを教えてくださっています。イエス・キリストを信じることが、創造主なる神様と関係を持つことができる唯一の道です。心でイエス様を受け入れましょう。
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アーメン。神が天地万物を創造されました。私達が主イエスを信じる時神に罪を赦されるだけでなく、神が味方してくださる人生と永遠のいのちも与えてくださいます。今日も“わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる(エペソ3:20より)“ 、唯一の神さまの御手にすがります。
真実の神様を礼拝できること、本当に幸せですね!