聖書は古くて新しい不思議な本です。人間の知識を超越した驚くべき知識と知恵が示されています。聖書は現代科学がない時代に書かれたのですが、宇宙の存在の意味、人間の存在の存在意義を明確に私たちに人間に説明しています。クリスチャンでなくても、一度は聖書を読む価値がある聖書の不思議に迫ります。
目次
聖書は古くて新しい
聖書の成り立ちをよく考えてみると、「聖書は本当に不思議な本だ」と、誰もが気づかれるのではないでしょうか。
第一に、聖書(旧約聖書39巻、新約聖書27巻)が書かれた年代です。現代科学がない時代、3000年から5000年も前に書かれたのですが、その内容は人類がずっと求めていた宇宙や自然の存在意義、また人間の存在意義を現代人にもわかりやすく説明しているのです。その意味で、聖書は古くても新しい書なのです。歴史に残る哲学者たちが求めていた人生の意味を、聖書の中の数ページで明確に啓示しているのです。数千年前に書かれた書物なのに、なぜそんな事が出来たのでしょうか。それは、創造主なる神が、書いた人々の霊を動かして書いたからです。
補足 ある科学者たちは、物質に含まれる炭素の成分から地球の年齢が数億年、人間の祖先であるホモセピアンスが50000年と言っています。管理人は科学的見識はありませんので、科学的観点からは何もいえません。しかし、聖書的観点から違った見解をもっています。このテーマについては、また改めて記事を書いてみるつもりです。関連記事 科学の限界を聖書的観点から考える、聖書は科学的に正確なのか、進化論は科学的に正しいのか
第二に不思議な点は、聖書が長い年月をかけて違った人々によって書かれているということです。もちろん違った人たちが、違った時代に違った時代背景があって書いているのですから、その内容と視点は違います。しかし、聖書の中にあるどの書をとっても、そのテーマは一貫して神です。もう少し詳しく分ければ、神の愛、神の正義、神の権威、神の創造、神の聖、神の裁きです。そして、もう一つのテーマは、人間が神に対してどのように生きるべきかが書かれているのです。人間の存在が、大きくクローズアップされています。
聖書に啓示されている「世界という舞台」

たとえで言えば、神は劇場の舞台を造った方であり総監督です。舞台裏で見ている方です。わたしたち人間は、舞台で自由に演じている役者といってもいいでしょう。本来ならば、舞台に立って演じている役者たちは、総監督の意向に沿って演じるべきです。この総監督は、「わたしの言うとおりに演じなさい」と役者たちの心に良心を植え付けました。
しかし、同時に自由意志を与えたのです。役者は、良心に従い自由に演じなさい、と命じられたのです。しかし、多くの役者たちは、この自由を悪用して好き勝手に演じるようになりました。舞台は混乱するばかりです。
創世記1章によれば、天地万物は神によって創造されたと記されています。ここから人類の歴史が始まります。創世記12章から、神の物語の焦点はイスラエルに移りますが、神の目はいつも地球全体の民に注がれているのです。神が造った舞台は、私たち人間が住んでいるこの世を指しています。
聖書に示されている霊的な世界
テレビやインターネットでは、怪奇現象などと称して世にも不思議な出来事をハイライトに番組が作られることがあります。霊界の世界の話を興味津々で見る方もいらっしゃるかもしれません。そのような不思議な現象は、何も不思議なことはないと管理人は思います。
ちょっと考えてみてください。この世では、なぜこれほど悪がはびこるのでしょうか。多くの人たちが犯罪に手を染め、奈落の底の人生を歩んでいく、悲しい辛い人生を歩んでいくのはなぜでしょうか。
主イエス・キリストは悪魔であるサタンと対峙しました。また悪霊を人々の心から追い出しました。創造主なる神の存在も聖書は明らかにしていますが、悪魔の存在、悪魔の霊の存在も明確に語っています。霊的な世界は、確かに存在します。そこは私たち人間の目には見えない世界です。怪奇な現象の裏で、人を惑わし創造主なる神から離れさせるために悪魔は働いているのです。
悪魔の囁きに騙されて、人々は自分勝手に自己中心的に生きていくようになります。この世の霊的な支配者は悪魔であると聖書は教えています。このような悪魔の力が働いているから、この世の中は混迷しているのです。
聖書に明らかにされる全人類への神の愛
新約聖書において、神の愛が地球規模であるということが明らかにされます。旧約聖書の預言にあるように、キリストはイスラエル民族の中のユダ族から生まれました。この方は、イエスと名付けられました。主イエス様はユダの地で神の御心を教えたのですが、イスラエルの人々であるユダの人々は、主イエス様の教えに耳を傾けようとしません。むしろ、ユダヤ人律法学者や教師たちは、イエスを何とか失脚させようと策略をねり、最終的に、イエスをローマ帝国の法により十字架刑につけてしまったのです。
不思議なのは、キリストの十字架上の死が神の御心だと、新約聖書は教えているのです。この方は、全人類の罪のために死なれたのです。主イエス・キリストの十字架の死は、全人類の罪のために成されました。信じるか否かは別として、キリストの十字架の死は不思議な事実です。
聖書が明らかにしている人間の罪
神が最初の人間を想像して以来、人間には自由意志委が与えられています。しかし人間は、その大切な自由意思を悪用します。結果的に、社会の悪は悪を世界全体が混迷しているのです。
仏教用語の因果応報と言われるように、この人間の罪悪は、人間社会に重い罪として一人一人の人間を苦しめているのです。主イエス様は、罪を犯す者は罪の奴隷であると明言しています。この奴隷状態の中で、人は鎖につながれ苦楽を味わいながら生きていくのです。旧約聖書の伝道者の書の著者は、人がこの人生で追い求めるものはすべて空しいと嘆いています。
自分は善人である、また自分には罪などないと信じている人でも、「人間社会は、悪によって自分自身を苦しめていると納得せざる得ない」のではないでしょうか。ここにも聖書の不思議さがあります。
この世のすべての問題(地球温暖化であろうと、戦争であろうと、原子力であろうと何であろうと)は、人間の自業自得と言えないでしょうか。地球は、最後には地球温暖化や原子力戦争で破滅するかもしれません。この地球は最後には火に溶けてなくなると預言されています。人間の現実社会は、聖書が教えている通りに動いていることです。
いかがでしたか。聖書が不思議な本であることを説明しました。素直な心で聖書を読み始めた人が、異口同音に気づくことがあります。人間が生きるべき道が示されている不思議な本です。一読して損することはありません。