コンテンツへスキップ 投稿日:2022年5月19日/更新日:2025年2月15日

聖書の美しい言葉

聖書の上に置かれている眼鏡

御茶の水キリストの教会のメンバーである鈴木敦博さんの寄稿です。クリスチャンない方でも、いいなと思える言葉、聖書の美しい言葉、元気が出る言葉、と思って頂けそうなところを選んで紹介しています。この記事を読んで聖書に少しでも親しんでいただければ幸いです。

聖書について簡単な説明

聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれています。旧約聖書は、イスラエル・ユダヤ民族と神様との関係が書かれています。それに対して、新約聖書は、イエスキリストを中心に、全ての人間と神様の関係が書かれています。

そうなると、旧約聖書と新約聖書は、全く違う書物なのかと思われるかもしれませんが、そこに書かれている神様は同じ神様です。

簡単に言えば、旧約聖書はイエスキリストの前、新約聖書はイエスキリストが生まれる時以降、と分けられます。旧約聖書と新約聖書の教えに齟齬があるわけではなく、新約聖書はイエスキリストによる一歩進んだ判りやすい教えが書かれていると、ざっくりイメージして頂ければと思います。なお、旧約聖書はユダヤ教やイスラム教でも使っています。

豚に真珠、ハレルヤ、狭き門

旧約聖書 コヘレトの言葉(伝道者の書)1章

伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。

コヘレト1章2節-9節

これを聞くと、皆さんは般若心経を思い出されると思います。

般若心経は、正式には「般若波羅密多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)」という経典で、サンスクリット語では「プラジュニャーパーラミター・フリダヤ」と呼ばれているそうです。

般若心経の出だしは、以下の通りです。

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時。照見五蘊 皆空。度一切苦厄。

かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー。しょうけんごーうん かいくう。どいっさいくやく。

舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。

しゃーりーしー。しきふーいーくー。くーふーいーしき。しきそくぜーくう。くうそくぜーしき。じゅーそうぎょうしき やくぶーにょーぜー。

旧約聖書のコヘレトの言葉は、紀元前10世紀にソロモンが書いたと言われており、般若心経は4世紀頃に書かれたといわれています。般若心経の方がおよそ1400年あとなのですが、学者さんの論文を捜してみても、般若心経がコヘレトの言葉の影響を受けたかどうか、明確なものは見つかりませんでした。もし、皆さんの方で、ご存知の資料があれば、お教え下さい。

このふたつを比較してみると、

般若心経の「色即是空」「空即是色」の「色(しき)」とは、形あるもののことで、「形あるものは、即ち空である。また空であるものこそ、形あるものである。」ということで、「いつまでも変わらずに有るのではない」と言っているそうで、「確かなものでない自分に執着し、しがみついてはならない。」と諭しているとのことです。

一方、コヘレトの言葉の「空」は、人生全般について語っており、特に年齢を重ねた方には判りやすいと思います。若く血気盛んであったころに、あれだけこだわった事柄が、年齢を重ねて振り返ると、違って見えてきます。「コヘレトの言葉」の最後は、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとって全てである。神は、善であれ、悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」という言葉で締めくくられており、「雅歌」をはさんで、大預言書のイザヤ書につながります。イザヤ書には、勇気が出てくる言葉がいくつも語られています。

旧約聖書 コヘレトの言葉(伝道者の書)、イザヤ書 抜粋

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。…わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。…あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。…悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。…あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。

コヘレトの言葉 抜粋

コヘレトの言葉の後に続く、大預言書といわれているイザヤ書からも抜粋します。

恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。…あなたの神、主なるわたしは/あなたの右の手をとってあなたに言う、「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。…あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。…主は言われる、「わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。

イザヤ書から抜粋

 「預言」というのは、神の言葉を預かって語るということで、将来を予知するノストラダムスの予言とは全く違います。なお、イザヤ書には、イエスキリストの誕生や十字架についても書かれています。

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左の写真は、現代のエルサレムの写真です。

真ん中の右の壁は、「嘆きの壁」です。

紀元70年に、ユダヤ教の中心であった神殿が、ローマ軍によって破壊され、残った壁です。

今でも、ユダヤ教徒の方々が、嘆きの祈りをする壁です。

新約聖書 マタイの福音書5章

それでは、新約聖書からいくつかご紹介します。

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

マタイ5章3節-9節

これはイエスの「七福の教え」と呼ばれる有名な言葉です。原文のギリシア語が日本語に比較して語彙が少ないため、翻訳が難しく、多少読みづらいかもしれませんが、慰めの言葉が連なっています。

新約聖書 ヨハネの福音書 8章

彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

ヨハネ8章7節-11節

これは罪を犯した女性に対して、当時の律法では石打ちの刑に処すべきと律法学者たちが詰め寄っている時の、イエスの言葉と行動です。

新約聖書 コリント人への第一の手紙

もうひとつ、新約聖書から美しい言葉です。

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。…このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

1コリント13章

これは、キリスト教の結婚式でよく読まれる聖書の部分です。男女の愛だけでなく、あまねく人間同士の本質的な愛を語っています。これを書いたのは、あの有名な、パウロです。

ヨハネの福音書

最後に、ヨハネの福音書からご紹介します。

はじまりに かしこいものござる。 このかしこいもの ごくらくともにござる。 このかしこいものわ ごくらく。

(1837年の日本語訳の聖書)

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

ヨハネ1章1節-5節

ヨハネの福音書の最初の部分で、有名な箇所です。「ことば」はギリシア語の「ὁ λογος」で、「神の言葉」や「神の意思」という意味も含まれている言葉です。

1837年の日本語聖書は、ドイツ人宣教師のカール・F・A・ギュッツラフが出版したもので、1837年は天保7年であり、翻訳に苦労している様子です。夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという逸話がありますが、似てますね。

(蛇足ですが)ちなみに、皆さんも観たことがあるかもしれませんが、チャールトンヘストンが主演の「ベン・ハー」という映画の、英語の副題は、「A Tale of Jesus Christ」で、「大戦車レース」ではありません。

少しでも、「聖書にもいいこと書いてあるな」と感じて頂ければ幸いです。

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御茶の水キリストの教会 鈴木敦博

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