コンテンツへスキップ 投稿日:2023年1月3日/更新日:2023年5月7日

バプテスマ、洗礼の方法

洗礼の方法

洗礼の方法は、教派によって違います。浸礼(体全体を水に浸す)、注礼(頭に水を注ぐ)、滴礼(頭に水をたらす)の3種類があります。どの方法が正しいのでしょうか。それともまったく気にする必要はないのでしょうか。神様が定めた方法を、私たち人間が変える権利は持っていなません。

ギリシャ語 baptizo バプテスマの意味

バプテスマは、一般的には洗礼と呼ばれています。ギリシャ語のbaptismaは、「水に浸す」という特別な意味を持っています。「洗礼」では、その意味が消えてしまいます。原語の意味を残すために、新約聖書の原語であるギリシャ語から、バプテスマと訳されるべきでしょう。この記事では、聖書の原語に近いニュアンスをつかむために、バプテスマという言葉を使います。

バプテスマのヨハネは、ユダヤ人たちに悔い改めのバプテスマを施していました。そのような時に主イエス様がヨハネの下に来て、「バプテスマを受けさせてくれ」とヨハネに言いました。主イエス様は罪のないお方ですからバプテスマを受ける必要がなかったので、ヨハネは躊躇します。しかし、主イエス様は「正しいことだから」と言ってヨハネを諭しました。主イエス様は、水の中に入ってバプテスマを受け、水の中から出てきたと記されています。マタイ4章13-17節 

主イエス様が受けたバプテスマの方法は、単なる文化として考えるべきでしょうか。それとも、その手本に倣い私たちも水に浸かるバプテスマを受けるべきでしょうか。

主イエス様が十字架にかけられ死から復活した後、キリストが建てた教会が始まりました。その時、彼らはどのようにバプテスマを受けていたのでしょうか。使徒行伝にその歴史が書かれています。たとえば、エチオピアの高官がフィリポから福音メッセージを聞いた後、バプテスマを受けるのですが、彼ら2人とも水の中に入ったと書かれています。主イエス様がバプテスマを受けた方法で、この高官はバプテスマを受けたのです。使徒8章34-38節

注礼(頭に水を注ぐ)、滴礼(頭に水をたらす)の始まり

水の中に全身全霊が入るバプテスマが、どのように変わっていったのでしょうか。その歴史は、文書に残されています。1世紀の原始教会は、バプテスマを「水に完全に浸す」方法で行っていました。2世紀においても同様に行われていました。

ところが、3世紀に入ると事情が変わってきます。注礼や滴礼の方法が、導入されてきます。導入された理由として2つが述べられています。参考文献 Ferguson, Everett. Early Christians Speak. Abilene: ACU Press, 1987.

  • 病気やケガなどして、身体的に水に浸かるのが無理な状態
  • 全身を浸かるための水がない場合

3世紀以降、この2つの事例が一般的になっていきました。特に病気やケガといった場合が、今日でもあるかもしれません。ですから、一概に全く間違いとは言えません。しかし疑問が残ります。

バプテスマの方法にこだわる必要があるのか

バプテスマの方法は、ユダヤ教の単なる習慣だったのでしょうか。私たちが無視して良いものなのでしょうか。神様は、十字架にせよ主の晩餐(聖餐式)にせよ、私たち人間の文化を使って、御心を示しているのは間違いない事実です。しかし、文化だからといって、私たちが勝手に変える権威を持っているのでしょうか。バプテスマの方法は、神様が定めました。その方法を私たちは変えるべきではないでしょう。

また救いは、信仰のみによって行われるのだから、方法はどうでも良いのでは?と主張する牧師さんがいらっしゃいます。しかし、信仰は、神様の権威を信頼することも含まれていると私は思います。ゆえに、神様の権威を尊重するのであれば、バプテスマの方法は安易に変えるべきではない、と私は信じています。

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