コンテンツへスキップ 投稿日:2022年5月28日/更新日:2025年1月30日

主の晩餐、聖餐式は象徴か

聖餐式と主の晩餐のパンとブドウジュース

主の晩餐、聖餐式は象徴か、パンとブドウ液は象徴か、それともキリストの体と血に変化するのかは、キリスト教の歴史の中で様々な神学者が議論してきました。その解釈の歴史を振り返ります。この記事は、「聖餐式において、主イエス・キリストは臨在しており、パンはキリストの体を、ブドウ液はキリストの血を象徴している」と結論付けます。

イエス・キリストの言葉

パンをとり「これはわたしの体である。杯をとり、これはあなたがたのために流される血による新しい契約である」と主イエス様は言いました。またヨハネ6章では次のように言っています。

わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。…人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。(ヨハネ6章51節ー55節)

1世紀のクリスチャンは、文字通り主イエス様の肉を食べ血を飲むと解釈したのでしょうか。十字架にかけられたイエスの死体を切り刻んで、肉を食べ血を飲んだのでしょうか。上記の言葉を文字通り受けった人たちは、主イエス様から離れていきました(ヨハネ6章60節)。

カトリックから宗教改革者まで

最初に、カトリックから宗教改革者たちの解釈を検証してみましょう。

聖餐式のパンとブドウ液は象徴か

「パンとブドウ液にイエス・キリストが現在するのか」という議論では、教派によって意見が違います。新聖書辞典(東京:いのちのことば社出版部、1985)P.608 を参照。

  • 実体変化説(transubstantiation):司祭の言葉によって、パンはキリストの体にブドウ液はキリストの血に実体変化すると考え、主の晩餐においてキリストのいけにえが現在する。カトリック教会とギリシャ正教会は、この解釈が正しいと主張している。 
  • 共在説(consubstantiation):宗教改革者ルターは、キリストのいけにえが現在する考えには反対したが、キリストがパンとブドウ液に現在すると考えた。
  • 宗教改革者ツヴィングリは、霊的現在を説き実体現在説に反対した。
  • 宗教改革者カルヴァンは、主の晩餐を神の恵みの手段として捉えた。さらに主の晩餐に聖霊の神が、働いていることを強調した。

これらの解釈の伝統が、現在でも諸教会に受け継がれてきました。とはいえ、それが正しい解釈かは別問題です。著名な宗教改革者だからといって、彼らの解釈が正しいとは限りません。

聖餐式、主の晩餐

中世の聖書解釈の問題点

聖餐式のパンとブドウ液は象徴か
ノートルダム教会にある悪魔除け

上記の解釈は、5世紀以降の中世の聖書解釈が基盤となっています。問題点がない訳ではありません。中世の教会の建物の悪魔除けを見てもわかるように、中世の聖書解釈は迷信的な奇跡を信じる傾向にありました。今では一般のお祭りになってしまったハロウィーンも、中世の教会で発達したキリスト教の宗教的行事です。

中世の聖書神学者たちも、キリストの言葉を字義通り解釈するかしないかで悩みました。文字通り、キリストの肉と食べ血を飲むとは、解釈できなかったのです。そこで中世のカトリック教会は、パンが霊的にキリストの体に、葡萄酒はキリストの血に変化するという解釈を生み出したのです。さてこの解釈が、本当に正しいのでしょうか。

解釈の原則 字義通り(文字通り)、たとえ、強調、象徴

パンとブドウ液が象徴なのか、それとも実際にキリストの肉と血となるのかを判断するために、解釈の例を列挙してみます。

  • 字義通り(文字通り)の解釈。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
  • たとえの解釈。イエス・キリストは、「わたしは羊の門である」と言っています。誰も物理的な門とは考えないでしょう。ご自分を羊の門に例えているのです。
  • 強調の解釈。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」もし文字通りの命令であれば、多くのクリスチャン男性は盲目になってしまうでしょう。
  • 象徴の解釈。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」十字架は象徴です。文字通り、物理的な十字架を背負って歩いた人がいますが、これもある意味、その人にとって象徴的な行動だったのではないでしょうか。その方が、自分が背負っている十字架の象徴として、物理的な十字架を背負いたかったのでしょう。すべてのクリスチャンが、物理的な十字架を背負うようには教えられていません。

その他、象徴として与えられている例

神の救いを覚えるために、神は礼拝の行いを救いの象徴として与えています。そのいくつかを旧約と新約から列挙してみます。

  • 旧約の時代では、エジプトの奴隷状態からイスラエルの民を救った神のわざを覚えるために、過ぎ越しの祭りが与えられました。
  • 神の創造のわざを覚えるために、安息日が与えられました。
  • イスラエルの人々は、自らの罪の重さと神の憐れみを思い起こすために、いけにえをささげました。
  • 新約の時代では、イエス・キリストの死を象徴する十字架が与えられています。
  • イエス・キリストの死と復活、クリスチャンの死と復活を象徴するバプテスマが与えられています。
  • 聖餐式である主の晩餐も、同様にイエス・キリストを覚えるために与えられているのです。

キリストの臨在、象徴のパンとブドウ液

イエス・キリストは、弟子たちを招き主の晩餐(聖餐式)を制定しました。今日、クリスチャンが主の晩餐にあずかるとき、主イエス・キリストは霊的に信者と共にいらっしゃいます。しかし、パンがキリストの肉に、ブドウ液がキリストの血に物理的に変化することはありません。なぜなら、神の御心ではないからです。また、そのように教えられてはいないからです。

クリスチャンは、信仰によってパンをキリストの体としていただきます。また信仰によってブドウ液をキリストの血としていただくのです。

もしある人が、個人の信仰によって物理的なキリストの血であるとして飲んでいるのであれば、それはその人にとって正しいことです。誰も裁くことは出来ません。主の晩餐である聖餐式は、教会全体の礼拝であると同時に、個人の礼拝でもあるからです。その人と主イエス・キリストとの関係において、主の晩餐は行われるべきだと私は思います。

もっと深く主の晩餐である聖餐式を理解するために、次の記事も読んでみてください。

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