ローマ1章12節に書かれている「信仰によって励まし合う」意味を、教会における人間関係と共に考えます。
「信仰によって励まし合う」本来の意味
お互いの信仰によって励まし合うとは、信仰の押し付け合いではありません。聖書の教えを討論する場でもありません。
天の御父様なる神様は、主イエス・キリストを信頼する人の人生で働いてくださています。主を信じて生きている人に働いています。その人の人間性も生活習慣も、良い方向に変えてくださり、導いてくださっています。私たちは、お互いの変化に気づきます。主イエス様によって、新しく造り変えられている事実に、お互いに気づくのです。他の人の健全な信仰を垣間見て、主イエス様を信じることが本当に正しいことだと確信を持てます。「これは間違いない。主イエス様を信じることが、最善の生き方である」と改めて確認できるのです。
聖書の中に、「悲しむ者といっしょに悲しみなさい。喜ぶ者といっしょに喜びなさい」という言葉があります。つまり、クリスチャンの人間関係は、「あなたの幸せが私の幸せです。あなたの悲しみは、私の悲しみです」とハッキリと言える関係です。主イエス様は、一番大切な戒めとして、「主なる神を愛すことと、隣人を自分のように愛しなさい」と教えています。また、主イエス様は、「わたしが愛したように、お互いに愛し合いなさい」と私たちは教えられています。
神様の愛が、私たちを結び付けているのは間違いありません。では、具体的に、隣人愛をどのように実践できるのでしょうか。主イエス様が愛したように、愛すとは、どのような意味なのでしょうか。「お互いの信仰によって励まされる意味」とともに考えてみます。このクリスチャンの人間関係が、具体的に書かれている箇所が聖書にはあります。ガラテヤ6章1‐10節を読んでみましょう。この聖句から、クリスチャンの人間関係について、3つの原則が見つけることができます。
1.他の人の重荷を負ってあげる
クリスチャンも、罪人なる人間に過ぎません。だから、罪に躓くことがあります。そのような人を見たら、その人を裁くことなく手を差し伸べてあげましょう。その人の重荷をいっしょに背負ってあげるのです。いっしょに祈ることもできます。その人の話を静かに聞くだけも良いでしょう。そばに寄り添って、支えてあげる必要があります。
私たち人間は、クリスチャンになっても弱いのです。一人では背負いきれない人生の重荷があるかもしれません。誰かに手伝ってもらわなければ、ダメな時があっても、何も恥ずかしく思う必要はありません。
クリスチャンの人間関係は不思議な関係です。主イエス・キリストへの信仰によって、お互いに助け合うことができます。助ける方も、助けられる方も、主イエス・キリストに感謝します。これこそ、お互いに愛し合うことの第一歩ではないでしょうか。
2.自分の責任を知り、自分の重荷を負う
しかし、健全なクリスチャンは、自分の責任を知っています。自分の重荷を負うべきことも知っています。自分が出来るのに、やらない人は怠け者であり愚か者である、と聖書は教えているように、それでは成長がありません。
他の人が、自分のために何か助けることができます。しかし、他の人が、自分の代わりになって生きることはできません。他の人が、自分の間違いや過ちの責任を負うこともできないでしょう。自分が蒔いた種は、自分で刈り取ることになる、と決められているです。自分の責任は、自分自身で負うように、神様が定めています。
主イエス様は、私たちの罪のために責めを受けました。しかし、それは私たちの罪が神様によって赦されているという意味です。罪の贖いがなされたのです。しかし、この世での人生の責任は、私たちが生きている限りあるのです。「自分が蒔いた種は、この世で自分が刈り取ることになる」のは、神様が定めた人生の原則です。
現代社会は、責任転嫁の時代かもしれません。自分の過ちを他人のせいにする風潮があるように思えます。しかし、健全なクリスチャンは、そんな流れに振り回されてはいけません。神様が教える原則によって生きていく必要があります。
3.自分の境界線を知り、他の人の境界線を知る
3つめの原則は、自分の境界線を知り、他の人の境界線を知ることです。これは、「隣人を自分のように愛しなさい」の原則に基づいています。善意で言うのであれば、何でも言って良いなんてことは、決してありません。一人一人には、個人の境界線があります。神様が定めた、一人一人の人間を敬う心です。お互いに受け入れ合い、お互いに愛し合い、お互いに尊敬しあう心です。主イエス様が、常に間に入っている人間関係です。
主イエス様は、私たちの境界線を大切にしています。無理やり、力づくで、私たちを信じさせるようなことは、決して主イエス様はしません。常に愛に満ちた暖かい言葉をかけてくれます。しかし、同時にそれは現実を見据えた厳しい言葉です。「もしあなたがわたしについて来たいと思うのであれば、自分を捨て、十字架を負い、わたしに従いなさい」と教えられています。
主イエス様は、私たちの自由意志を尊重しています。私たちの心に、土足で入るようなことなどしません。私たちの人間性を尊重しています。私たちの人間関係にも、同じことが言えるのではないでしょうか。人間は簡単に「あなたの信仰が弱いから、あなたはすぐ落ち込むんだよ。そんなじゃダメだね」と蔑むようなことを言ってしまいます。しかし、主イエス様は「信仰が弱い者よ」と言いますが、それは愛に満ちた言葉です。「だから、わたしを信じて生きなさい。わたしがいっしょにいるから、大丈夫だよ。わたしについて来なさい」と言ってくれる愛の言葉なのです。
お互いの信仰に励まされ、善に励みましょう
ここまでまとめてみます。お互いの信仰によって励まされるというのは、お互いが主イエス・キリストによって成長しているのを、垣間見て成されるのです。お互いが、主イエス・キリストにあって、新しく造り変えられているのを見る時に成されるのです。
だから、パウロは「お互いに善を励もう」とガラテヤ書で書いています。主イエス様が中心にいる人間関係には、「自分のように人を愛する心」が宿っています。常に相手に対して、最善を思う人間関係があるのです。今日も、主イエス・キリストによって、お互いの信仰によって励まされながら、この人生を歩んでいきましょう。
ローマの手紙
アーメン。主に在って恵みの内を皆と共に歩めるのは本当に喜びです。