エペソ1章3-14節の構成を最初に読んでください。神の子供になる資格などない私たちを、神様は主イエス・キリストを通して、養子として受け入れてくださいました。クリスチャンには、養子としての神の子の喜びがあります。
この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。エペソ1章11-14節 聖書協会
キリストを通して、神は養子縁組をされた
エペソの手紙は、異邦人クリスチャンに書かれた手紙です。旧約の時代には、異邦人は神の恵みから離れた存在でした(エペソ2・3、11―13)。新しい契約の時代に入り、神はイエス・キリストによる新しい契約を、異邦人を含めたイスラエルと結んだのです。新しい契約下のイスラエルは、人種や民族で分けられません。誰にでも神の民として認められるチャンスがあります。イエス・キリストの救いの計画により、人種、貧富の差、性別を問わず、誰もが信仰によって神の子供として受け入れられる権利が与えられているのです(エペソ1・5、ヨハネ1・12-13)。
主イエス・キリストは、神をご自分の父と呼びました。厳密に言えば、主イエス・キリストだけが、神を父と呼ぶ権利をもっているのです。神の一人子である主イエスは、父と供にいらして天地万物を創造した方です。主イエス以外、天から下った方はいません。主イエスだけが、父なる神を知っているのです。ところが、主イエスは、父なる神を見せてくださいました。そればかりではなく、神の子供として父なる神に祈る権利を、クリスチャンにお与えになったのです(マタイ6・8―9、ヨハネ1・12)。
どのような過去をもった人でも、神は主イエス・キリストに信仰を持つ人を、神の子供として受け入れてくださいます。これがキリストの福音です。国を超え文化を超え、世界の人々に響き渡るべきメッセージです。
聖霊なる神の刻印
次に、パウロは、異邦人に対する神の救いの計画を、聖霊の賜物の観点から説明しています。主イエス・キリストの名によってバプテスマを受けた者は、神の相続の保証として聖霊なる神が与えられています(エペソ1・13―14)。クリスチャンは聖霊によって導かれて、神の子供として生きます。
聖霊によって異邦人クリスチャンも、創造主なる神を「アバ、父よ」と呼ぶことができるのです(ローマ8・9-10)。1世紀の文化を考えてみましょう。「アバ」という呼び名には、父子関係において、特別な親近感がありました。アバは、厳格な父に対しての呼び名ではありません。子供が父に甘える気持ちと感謝の気持ちが、アバという呼び名には含まれています。
縁もゆかりのない人が養子縁組にはいったら、どのように行動すべきでしょうか。当然ながら、その家族の秩序、規則に従わうべきでしょう。主イエスは、「主よ、主よという者がすべて天の御国に入るわけではない。父の御心を行なう者だけが天の御国に入る」と警告しています(マタイ7・21)。主イエス・キリストによって養子縁組を結んで神の子供とされた私たちは、主イエスの恵みの特権を持っていると同時に、主に従う義務を負っているのです。
キリストを通して、神は憐れみを与えている
私たちには、元々、罪ゆえに神の恵みを受ける資格などありません。罪人であるがゆえに、私たちは今でも罪を犯してしまう愚か者です。それでも神は私たちを受け入れてくださっています。
フグという高級食材には毒があります。資格をもった料理人が捌かないと食べた人は、毒で死んでしまいます。私たちにとって、その料理人とはイエス・キリストです。毒を抜いてもらうのです。
またアンコウという食材があります。この食材も専門の料理人が、きちんと料理する必要があります。アンコウはちょっとグロテスクな姿ですが、食べると美味しいのです。私たちも同じです。姿かたち、心も醜いかもしれません。しかし、主イエスによって「食べると美味しい」と思われるような人間にしていただくのです。
こんな私でも・・・
「こんな私でも・・・」という表現を聞く時があります。「こんな私でも幸せになれるかな」と歌にもなっています。キリスト教以外の世界でも「こんな私でも・・・出来る」と思って本当にがんばっている人たちが大勢いるでしょう。しかし、主イエス・キリストの十字架による罪の贖いは、「こんな私でも・・・」という思いをより強く人間の心に植えつけます。なぜでしょうか。
第一に、私たち自身が、心の醜い罪人であると気づかされるからです。「こんな私でも・・・」の「こんな」に強調点が置かれます。「こんな罪深い私」と思う時が、誰にでもあるかもしれません。この罪の大きさは、時としてその人をどん底に突き落とします。「こんな罪深い私には出来ない」と思わせますが、福音のメッセージは「こんな私でも・・・出来る」に変えて下さいます。
第二に、私たち自身が、神の愛を心から感じるからです。神の愛は、人間の想像を超えて大きい、とてつもなく広く深い愛です。クリスチャンは自分の罪を知る時、主イエスの声も聞きます。「立ちなさい。歩きなさい。あなただったら出来る。わたしを信じなさい。」と背中を押してくれます。「こんな私でも大丈夫?」と主イエスに問いかけると「大丈夫。わたしについてきなさい。」と言ってくれるのです。
結論
神様の子供になる資格などない者である私たちを、敢えて神様は受け入れてくださいました。神様は、主イエス・キリストを通して、私たちを養子として受け入れて下さったのです。この祝福は、言葉では言い尽くせないものです。神様の祝福を望む者は誰でも、神様は受け入れてくださいます。「こんな私でも・・・」神様は愛しておられます。主イエス・キリストに感謝しましょう。
ハレルヤ、アーメン。何という恵みでしょう。こんな罪深い私をも救ってくださった主に感謝します。日々神からいただく内なる喜びと平安は本当に恵みです。感謝します。
私も同じ気持ちです。過去を振り返るといろいろ思い出して、今生きているのが不思議なくらいです。感謝します。