エペソ人への手紙2章1節-10節の解説をします。パウロは、神の恵みによる救いを解き明かしていますが、この意味は何でしょうか。パウロの真意は何かを検証し真意を解説します。
パウロは1章で神の救いの計画と恵みを説き明かしています。エペソ2章1-10節はその続きです。この箇所は2つの部分に分けられます。最初の部分は1節―7節。この部分でパウロは、人が神の恵みによって救われるプロセスを説明してます。十字架で示された神の恵みによって、人は救われるのです。これが主イエス・キリストの福音です。8節―10節では、前半部分で述べたことを繰り返し簡潔に解き明かしています。
さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
エペソ2章1-10節 聖書協会
古い自分を脱ぎ捨て、新しい者に変えられる過程を語っています。神から遠く離れていた者が、どのように神によって受け入れられるのでしょうか。どのように救われるのでしょうか。
神の恵みによる救い

キリスト者は、恵みによって信仰を通して救われています。神の恵みによる救いの教理をパウロは、この箇所で解き明かしています。これは、クリスチャン信仰の土台とも言うべき教理です。神の栄光から離れた人間は、神の敵として歩み罪によって堕落して生きます。罪によって霊的な目は曇り、悪魔の虜として自分の欲望に仕えるようになってしまいます。ところが憐れみ深い神は、この世の支配者であるサタンによって騙され肉欲のままに歩んでいる人間たちに、救いの手を伸ばしてくださいました。一人子イエスをこの地上に遣わしてくださったのです。人の罪をすべて赦すために、神は一人子イエスを十字架にかけて永遠の贖いとしました。神は、主イエスを信じる者の心に聖霊を与え、また罪の赦しを与えたのです(ヘブル8・10)。
わたしたちは、神の恵みを受けるような存在ではありません。しかしながら、神はあまりに大きな愛によって人を包んだのです。十字架で示された愛によって、キリスト者は救われました。われわれに誇れるものは何もありません。救いはすべて神からの恵みです。
エペソ2章8ー10節の文脈でバプテスマをどう解釈すべきか
救いは神から頂くものです。わたしたちの神は、救いの計画を主イエス・キリストを通して成就してくださいました。人間が救いを求めたので、神が応え救いの計画を成就したのではありません。神の一方的な愛によって成されたのです。人間には、何も誇れるものはないのです。わたしたちの善行は、神の御前では砂粒の一つにもなりません。行いによって人は救われないのは、エペソ2章が明確に示しています。ではバプテスマをどうのように解釈したらいいのでしょうか。バプテスマを人間の行いと解釈すれば・・・理論的に言えばバプテスマは救いのためには必要ないといえます。この点について検証してみましょう。
エペソの手紙を書いた頃、パウロはコロサイの手紙を書いています。この二つの手紙の内容は、同じ時期に書かれたこともあり、非常に似通っている部分があります。ここでは、特にエペソ2章とコロサイ2章に焦点を当てて比較してみます。パウロは、この二つの手紙で異邦人たちがどのように神によって救われるのかを解き明かしています。人が救われる前の霊的状態、救われた後の霊的状態、神の救いの手段を、それぞれ説明しています。エペソとコロサイの手紙を両方読むことにより、パウロが言及している救いの神学をもっと明確に理解できるでしょう。

エペソの手紙とコロサイの手紙は、神の救いの計画についてお互いに補完しています。エペソの手紙は神の恵みについて言及していすが、バプテスマについて語っていません。コロサイの手紙はその逆で、バプテスマを語り神の恵みについてはふれていません。なぜこのように違うのでしょうか。パウロが書いている相手が違うからです。手紙を書いた時の状況が違うからです。聖句を文脈を考慮せずに引用するのは、誤った解釈に結びつきます。エペソ2章1節-10節も然りです。
神の救いのわざ 神の恵み、信仰、バプテスマ
神の救いは、100%神のわざです。人間が救いを求めて、その求めに応えて神は主キリストによる救いの計画をたてたのでしょうか。人の求めに応えてたものではありません。神の人間に対する一方的な愛によって、神の救いのわざが始まったのです。エペソ2章1節-10節はこの点を明らかにしています。
神の恵み、信仰、バプテスマはすべて神の働きなのです。コロサイの手紙には神の恵みが語られていないからといって、誰が神の救いの計画から神の恵みを外すでしょうか。誰もそんなことはしません。逆にエペソの手紙でバプテスマが言及されていないからといって、神の救いの計画からバプテスマを外していいのでしょうか。それは人間の勝手な解釈です。
神は、人が信仰によってバプテスマを受けるとき、その人を主キリストと共に死から霊的によみがえさせてくださいます(ローマ6・1‐11)。神は、その人の信仰を受け入れ罪の赦しと賜物として聖霊を与えてくださるのです(使徒2・38)。この救いのわざは、最初から最後まで完全に神のわざです。
神の働きのすべてを理解するのは不可能です。同様に、聖書すべてを理解することは不可能です。しかし、ハッキリわかっていることがあります。それは神は主キリストによって救いのわざを成就したことです。この方によってわたしたちは救われているのです。
読者の皆様の上に、主キリストの豊かな祝福が宿りますように。
【神様の恵みによる救い。エペソ2章】(by 野々垣 正信2022年6月15日) について
・文章の最後のほうで
「聖書すべてを不可能です。」とありますが、
「聖書すべてを”理解するのは”不可能です。」と読んでよいですか。また、理解することと、解釈することの違いはどこにありますか。
初歩的な質問かもしれません。ご教示いただけますと幸いです。
コメントに書いていただき、私の本当に初歩的な間違いを指摘下さり、心から感謝申し上げます。おっしゃるとおり、「聖書すべてを理解するのは不可能です」という意味で書いたつもりが、抜けていました。補足として「正しく」と入れた方がはっきりしますね。だから、「聖書すべてを正しく理解するのは不可能です」という意味です。
(正しく)理解するとは、神様の御心のままに理解することを意味します。解釈するとは、その個人の見解といっても良いと思います。解釈する場合、(たとえその人が認めなくても)その人の文化というレンズを通して、聖書を読んでいます。同じ聖書を読んでいますが、その時代、その時代によって、解釈が違くなることがあります。その時代の状況が違うからです。20世紀の話でいえば、第一次世界大戦前から大戦後では、神学者たちの解釈がシフトしました。大戦前は、希望的な目で世の中を見て、聖書、特に終末論を解釈していました。ところが大戦を経験した後、人間の罪深さを改めて神学者も知った訳です。