コンテンツへスキップ 投稿日:2022年7月11日/更新日:2023年5月7日

エペソ3章10-13節。教会の起源と役割

エペソ人への手紙3章10-13節の解説。教会の起源と役割。神様の救いの計画のなかで、教会の役割はどんなものでしょうか。教会の存在意義は何でしょうか。使徒パウロは、エペソ人への手紙3章で解き明かしています。

教会の起源 主イエス・キリストが教会を建てる

こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。

エペソ3章10-13節 聖書協会

ペテロが信仰告白した後、主イエス・キリストはご自分の教会を建てると言いました。マタイ16・18―20。主イエス・キリストは、キリストの体である教会、すなわちクリスチャンの共同体をお創りになりました。強調点は「キリスト」に置くべきです。教会あるいは集会に強調点が置かれれば、それは人間の産物に過ぎなくなってしまうでしょう。キリストが頭であり、キリストの支配がある共同体が、本物の教会です。

教会といわれる団体は数多くあります。とはいっても、主イエス・キリストが建てている教会かどうかが、問われるべきではないでしょうか。主イエス・キリストは、聖霊なる神様を通して、今でも現在進行形で教会を建てています。自らの教会が、神の御心のままに「キリストの体」になれるように祈るべきです。

教会と天の御国の関係

教会と天の御国はどんな関係にあるのでしょうか。教会=天の御国という短絡的な意味ではありません。天の御国とは、神の御心が行なわれるところです。この地上で神の御心が行なわれる教会に、天の御国が宿るのです。しかし、教会の看板を出したから、あるいは教会の献堂式を行なったからといって、自動的に神の御国が宿るのではありません。キリストのからだなる共同体、キリストの愛に満たされた共同体には、ハデスの門、すなわち死の力も打ち負かすことは出来ないとキリストは約束されています。

使徒たちの権威

主キリストは、使徒たちに特別な権威をお与えになりました。特別な権威とは何でしょう。最初に福音を伝える権威です。彼らの宣教の言葉によって、主キリストの福音が宣べ伝えられ、新約聖書が書かれました。

また主キリストは、彼らの祈りによって天と地上がつながる権威も与えました。彼らのとりつぎの祈りによって、人の罪が赦されるようにされたのですヨハネ20・23)。神様の裁きの日には、使徒たちはイスラエルの十二部族を治めることになると預言されています(ルカ22・30)。使徒たちの権威は、教会論の観点から言えば、非常に重要です。なぜなら、教会は、主キリストが基となる石となられ、使徒の権威という土台の上に建てられているからです(エペソ2・20)。

神の知恵を知らしめる教会の役割

使徒パウロは、「天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって」と書いていますが、神の知恵とは何でしょうか。エペソの手紙の文脈では、神の知恵は、ユダヤ人も異邦人もすべての民族が神の救いの計画にあずかることを指しています。神の救いを受けるのに、人種や民族の差、貧富の差、性別の差などありません(ガラテヤ3・27-29)。

しかし、神の知恵にはもう一つ別の意味があります。その知恵とは、主イエス・キリストの十字架によって示されました。神の子である方が、死刑囚として力なく十字架刑にされたのです。人間の罪を贖うために、罪のいけにえとして、主イエス・キリストは死なれました。この十字架に、神の愛と知恵が示されたのです。神様は、この知恵をこの世に知らしめる役割を教会に与えました。

主キリストの十字架のメッセージは、新しい契約のカナメ

この十字架のメッセージは、新しい契約のカナメです。主キリストの十字架には、神様の豊かな知恵が隠されていますが、この世は神様の知恵を見ようとしません。この世の知恵は、主キリストの十字架を単なる宗教の戯言としてしか考えていません。この世の知恵からすれば「キリストの犠牲」は偽物なのです。

ある人から皮肉を込めて、次のように言われたことがあります。「『人の為』と書いて『偽』と書くだろう。あんた方の言うことが馬鹿らしいんだよ」と。この人は主イエス・キリストが人の為に犠牲になって死んだという聖書の教えに、偽物というレッテルを貼ってしまっているのです。

しかし、クリスチャンは主キリストの十字架のメッセージを、宗教の戯言にしてはいけません。十字架のメッセージを正確に理解して、神様の御心のままに宣教する責務を、教会は負っているのです。

人間は、いつの世でも自分を高めようとする欲望を持っています。使徒たちも例外ではありませんでした。ヤコブとヨハネは、天の御国において主イエス・キリストの左右に側近として座らせ栄光をくださいと求めました(マルコ10・35―45)。他の使徒たちは、当然のごとく二人の傲慢さに怒りましたが、実は彼らも同様にプライド高き罪人に過ぎませんでした。

主イエス・キリストは、生き方のお手本を十字架の死によって示されました。十字架のメッセージは、人間の性(さが)と相反することを求めています。1.自我を捨てて、主キリストと同じように十字架を負って生きていきなさい。2.心、精神、思い、力を尽くして創造主なる神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい。

このメッセージの発信こそが教会のミッションです。キリスト者が集まる教会は、主キリストの共同体として神様の愛を実践して、この世に宣べ伝えなければなりません。

結論

教会がそのミッション、目的を忘れたら、教会でなくなってしまいます。教会の存在意義がなくなり、いずれ消えていくかもしれません。教会は地の塩です。教会から塩けをとったら何の役に立つでしょうか。捨てられて踏みつけられてしまうだけだと、主イエス様は言っています。この事実を覚え、日々祈り、教会の奉仕に励んでいきましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

モバイルバージョンを終了