人間関係に疲れない。クリスチャンの人間関係は、主を畏れ敬い互いに仕える原則に基づいている。霊的に成長するカギがこの原則にある。エペソ5章21節ー6章9節から学ぶ。1世紀ローマ帝国に見る家族構成が説明されているエペソ5章21節ー6章9節から学ぶ。
クリスチャンの人間関係の基本原則

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい
エペソ5章21節
上記の短い聖句に、クリスチャンの人間関係の基本原則が要約されている。
4章17節から5章20節までパウロはキリスト者の生活について述べている。不信仰な者からキリストによって新しく変えられ、また新しく生まれたキリスト者の生活を詳しく説き明かしている。5章21節から6章9節もその延長線上の議論と考えてよい。但し、ここでは個別の人間関係(夫婦関係、親子関係、主人と奴隷の関係)について言及されている
1世紀ローマ帝国に見る家族構成
これらの3つの関係に1世紀の家族構成を見ることができる。主人と奴隷の関係が入っているのに驚く方もいるかもしれない。家族・家庭の安定が社会の安定を招くと最初に主張したのは、紀元前4世紀の哲学者アリストテレスである。それ以来、ギリシャ・ローマ・ユダヤ社会の人々は、家族関係を重要視してきた。1世紀のキリスト者たちも家族関係が重要だと考えてきたが、そこには決定的な違いがある。神の御心は、異邦人の価値観と違い、主イエス・キリストが家族関係の中心におかれているのである。
上記の聖句を21節以前の部分として解釈するか、以降の部分として解釈するか、議論が分かれるところである。4章17節―5章20節までの結論とも捉えられる。または5章21節―6章9節までの表題としても考えられる。どちらの解釈も的を得ているといえる。つまり、21節は接続の聖句と考えるのが、文脈にもっとも合致している。キリスト者の霊的な生活の結論といえる一方、人間関係の基本原則として理解されるべきである。ではそれぞれの関係について考えてみよう。
夫婦関係
「妻は夫に従う」という聖句から夫婦の上下関係を読み取るのは明らかに間違いである。男と女は共に「神のかたち」として創造された。役割の違いこそあれ、その関係に上下はないのである。人間関係の基本は先に述べたように「主を恐れ尊んで互いに従う」にある。その前提条件で夫婦関係を理解しなければならない。
先に妻に「夫に従う」ように戒めて、後で夫を戒めているのに読者は注意すべきだ。パウロは敢えてこの順序を選んだ。なぜなら夫に対する戒めをよりインパクトのある形で与えたかったのだろう。妻が夫に従うのは1世紀の人々にとって驚きに値しない。この当時の人々にとってみれば当然のことと思えたからである。しかし、パウロは「妻の従順」に神学的な裏づけ、理由を述べている。神は、夫は妻のかしらであると定めた。この神学にパウロは、キリストと教会の関係をたとえに用いているのに読者はお気づきであろう。教会がキリストに従うように、妻も夫に従うように奨められている。キリスト者の夫婦がうまく機能するために必要な要綱とも言える。
しかし、夫に対してはもっと厳しい戒めが待っている。 夫はキリストが教会のために身を捧げたように、妻を愛さなければならない。夫の基準は、主イエス・キリストにある。なんと高いハードルだろうか。主イエスを基準として、夫は妻に接しなさいとパウロは諭しているのである。言葉では説明のしようがない重い重責である。この言葉を夫が真に捉えるならば、夫にはへりくだる道が残されている。キリスト者の夫は妻に対して独裁者のようになれない。むしろ主イエスが接するように憐れみと慈しみをもって、夫は妻と生活を供にしなさいとパウロは戒めているのである。キリスト者の夫はこの言葉を肝に銘じておくべであろう。
親子関係
パウロが書いたエペソの手紙を受け取った人々は異邦人であった。その異邦人たちに旧約聖書の律法の書、出エジプト記20章12節を引用して親子関係について教えていることに読者は注意すべきである。キリスト者は、新しい契約下にあるが旧約聖書を神の御言葉としていることに変わりはない。旧約聖書と新約聖書がどのような関係をもっているのか、律法と福音をどのような関係で捉えるべきか、これは非常に重要なテーマである。数ページで説明するのは無理なので別の機会に議論する機会があれば幸いである。
6章2節に「第一の戒め」とあるが、どのような意味なのだろうか。十戒を順に読んでみると、子供への戒めが約束を伴う第一の戒めであることがわかる。6章2節と十戒と合わせて読むことにより、パウロが意図がはっきりする。
パウロは意識的に子供に対する戒めを与え、次に父親に戒めを与えている。当時の文化からすればごく自然な流れである。(1世紀のギリシャ・ローマ文化では子供は奴隷以下、半人前に扱われていた。家事の手伝いなど出来ないからである。このような背景があり主イエス・キリストは「子供のようにへりくだった者になりなさい」と言ったのである。)子供が父・母を敬うのは神が定めた原則である。レビ記19章3節には、父母を恐れなさいとも教えている。この原則は、子供が成人になって独立しても老人になっても変わらない。親子関係は年に関係なく続くのである。同時に、キリスト者はこの親子関係が「キリストを恐れ尊ぶ」大原則に基づいていることを忘れてはならない。
親の権威が昨今失われつつあるが、1世紀のギリシャ・ローマ社会では親の権威は大きかった。特に父親の権威は一家の長として絶大であった。そのような異邦人がキリスト者になったと想像してもらいたい。絶対的な権力をもつ者は、目下の者に対して圧力的になってしまいやすい。父親にて例外ではない。パウロは異邦人たちの慣習が念頭にあったのだろう。ゆえに最初に、子供をむやみに叱ったり怒ったりしないように、父親に警告を与えている。父親が良かれと思ってやったことでも、このような態度によって父親は悪魔を喜ばしてしまう。むしろ、主にあって子供を育てる必要がある。父親は主イエス・キリストが自分自身に対して憐れみ深いように、子供を訓練するべきである。やはり、父親も主を畏れる心をもって子供に接することが求められている。
主人と奴隷の関係
夫婦関係、親子関係の例のように主人と奴隷の関係においても、パウロは社会的に身分の低いと思われる者を最初に戒めている。主イエス・キリストに仕えるように自分の主人に仕えなさいと教えているが、この戒めには実に奥深い意味が文脈から読み取れる。主イエスに仕え正しいことをしていれば、たとえ自分の主人に咎められたり迫害を受けたとしても、主の恵みを受けるのである。キリスト者はこの真理、すなわち、主に仕えることは主の足跡に続くことでもあることも認識すべきである(1ペテロ2・18-21)。
キリスト者である主人の奴隷に対する態度は、寛容なものでなければならない。主イエスが主人と奴隷、分け隔てなく憐れみ罪を赦しているからに他ならない。主イエスの愛に差別はない。奴隷や主人といった社会的地位は関係ない。
「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。(ガラテヤ3・28-29)
主イエスの愛は社会の階級がもたらす悪を取り払ったのである。主人は奴隷を顎で使うことも出来たであろうが、キリスト者である主人は、主イエスの愛によって奴隷と接する。なぜこのような事が可能なのだろうか。神の愛が主人の心を変えたのである。主人も神の憐れみを受けたゆえである。
今日、公の奴隷制度は存在しないが、会社の雇用関係や上下関係に適用できるであろう。日本のクリスチャン人口は1%未満だからほとんど場合、主の愛を知らない人と行動を供にして働かなければならない。日々の生活で上記の聖句を心に刻んで労働に励みたいものである。
結論
ここまで3つの人間関係について学んだ。人間関係の中枢にあるのは主イエス・キリストである。この方が中心にいない人間関係は、相手がノンークリスチャンであってもキリスト者にとってありえない。もしあるとすれば、そのキリスト者は悔い改めなければならない。実際、毎日が悔い改めの連続である。修整しなければならない。日々、主イエスと共に死んで主の力によって復活を経験するべきである。この過程が実はキリスト者の成長の道なのだから。