悪魔との戦いに勝利するために

霊的な戦いに無頓着になっているクリスチャンはいないか。悪魔との戦いに勝利するために、何が必要なのか。エペソ6章10節-20節がその答えを教えている。

6章10節ー20節をエペソの手紙の文脈で読む

6章10節―20節は、パウロの手紙の中でも、霊的な戦いという意味で非常にユニークな内容と言わなければならない。他の手紙で、「主にあって強くなりなさい」と(2テモテ2・1)奨励されているが、その手段は説明されていない。

エペソ1章―3章まで、主イエス・キリストによる救いの恵みが強調されているのに対して、4章―6章では、その恵みをどのように実生活(教会生活や人間関係)の中で生かしていくべきが啓示されている。実生活のキリスト者の成長過程には、様々な要素が含まれる。(たとえば2ペテロ1章では、信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛を増し加えなさいと教えられている。)パウロは、エペソの手紙でキリスト者の生活自体が霊的な戦いであると、結論づけている。霊的な戦いに勝利するために、クリスチャンは霊的な武具を身につけなければならない。この啓示がなければ、私たちは霊的な戦いを知らずして、悪魔の策略に騙されていたかもしれない。主に感謝すべきである。

霊的な戦いを認識する必要性

創造主なる神の存在の認めるのであれば、霊的な悪の力であるサタンの存在を無視するわけにはいかない。聖書は、悪魔の影響力がこの世にあると明確に啓示している。しかし、一般的に霊的な成長において、御言葉や祈りが強調されるが、悪魔との霊的な戦いはあまり認識されない。主イエスが、サタンによって誘惑された事実を覚えていただきたい。聖書全体の割合でいえば、悪魔はごくわずかしか出てこないが、その影響力は人間の想像をはるかに超えている。

教会で何か問題があったとする。たとえば人間関係としよう。敵はどこにいるのだろうか。あなたに敵対している人だろうか。本当の敵は悪魔である。悪魔は分派分裂を誰よりも喜ぶ。人に懐疑心を生ませ、信頼関係を壊そうとあらゆる手段を使う。このような時に、霊的な戦いに無知な人は、反対する兄弟姉妹を敵と思ってしまう。そんな愚かな罠にはまらないように、霊的な戦いを認識する必要がある。では霊的な戦いは、どのような性質をもっているのだろうか。それをもっと深く考えてみよう。

霊的な戦いの性質

サタンとの霊的な戦いに勝利するために

霊的な戦いは、血肉つまり人間に対するものではない。悪魔の策略は、目に見える具体的な形として現れてこない。ゆえに悪魔の策略は、人間には見分けるのが難しい。悪魔は良いことさえも自分の目的のために使う。悪魔は神の御言葉を巧みに使い、主イエスを誘惑していた事実を覚えている読者もいるかと思う(マタイ4章)。良いこと、清いことが悪魔によって使われているとは、私たち人間には考えにくい。ほとんどの場合、気付かないのではないだろうか。

目に見える敵であれば、たとえ大敵であっても簡単に見分けることが出来よう。そう簡単にだまされたりはしまい。しかし、敵である悪魔は、目に見えない人間の心に巧妙に入り込んでくる。人間を惑わし迷い道に導こうとする。惑わされている本人は、悪魔によってだまされていることを知らない。目に見えない敵と戦うことほど厄介なことはない。(放射能も目に見ないから怖いのだが。)悪魔の策略は、人間をだまし欺き、主なるイエスから離れさせることに目的があることを、キリスト者は肝に銘じておかなければならない。

悪魔のわざ

悪魔は最初から偽り者である(ヨハネ8・44)。アダムとエバに嘘を信じさせた。さらに全世界の人々を混乱の中に置く。その結果、惑える人間の心は、真実と思えるような偽りに落ち着いてしまう。創造主なる神は、人間を正しい者として創造された。しかし、人間は多くの理屈を述べて真理を曲げてしまう(伝道者の書7・29)。これも悪魔のわざと言わねばならない。

アダムとエバの罪の後、人間はお互いに仲たがいをするようになった。自然さえも人間にとって過酷な環境になった。エデンの園ではアダムとエバは、知識の木の実以外、神によって与えられた木の実を自由に食べることができた。しかし、罪の後、太陽の下で、人は汗水流して働かなければならないようになった(創世記3・18-19)。これも罪の結果であり、悪魔のわざの結果と言えよう。

悪魔は、あらゆる手段を使って人間を苦しめようとする。主イエスは18年間、病に苦しんでいた女性を見て「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛を解いてやるべきではなかったのか」と言っている(ルカ13・16)。現代人は、病気を自然の成り行きと考える。年をとって老衰で死んでいくといったように、自然の成り行きのように感じられる場合がある。あるいはタバコが原因で肺がんで死ぬ人もいる。脳卒中や心臓病やガンで亡くなる人もいる。しかし、死が、悪魔によってだまされた結果として、すべての人間にもたらされたのであれば、私たちの病も究極的に悪魔のわざと考えるのは神学的に考え不思議ではない。過酷な自然の中で人間は生きていくように、人間はいずれ病気になり死んでいく。これが神が定めた人間が生きていく道筋と言える。

悪をも善に変えてしまう神の働き

ここまで悪魔のわざを強調してきたが、それ以上に大事な事実がある。それは悪を善に変えてしまうことが出来る神の働きである。先ほど、病は悪魔のわざであると書いたが、そのわざをも神は栄光のために用いる。一世紀のユダヤ人たちは、人の不幸は罪ゆえに起こると単純に考えていた。それゆえ「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。その両親ですか」と聞いた(ヨハネ9・2)。ところが主イエスは「本人が罪を犯したからでもなく、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである」と答えられた。主イエスは神の力によって盲人の目をあけられた。神の栄光がここにある。この盲人の方も周りにいた人々も、神の栄光を見て主イエスを信じたのである。まさに悪が善に変えられた神のわざがここにある。

人間が受ける苦しみや悲しみのなかで、神の栄光が輝く時がある。わたしたち人間が老いて死んでいくプロセスにも、神の栄光を見る時がある。人々が痛み、悲しみ、苦しみもがいていた時、主イエスは神の愛によって人々を癒した。人々を憐れみ食事を与えた。この同じ愛が、今の暗闇の世の中でも実践される時、わたしたちは神の働き、栄光を見るのである。まさに悪をも善に変えてしまい、すべての事を益として下さる神の素晴らしき恵みを体験するのである(ローマ8・28)。

主イエスの十字架は、悪魔が勝利したと思った瞬間である。しかし、その十字架を神は勝利に変えられた。主イエスは、父なる神の御心に従い、自ら十字架につけられた。神の子が民衆の力に屈したのである。これほど屈辱的なことはなかろう。だが神は主イエスを死から復活させて、十字架を勝利のシンボルにした。悪魔からすれば、9回裏に逆転満塁ホームランを打たれたようなものである。この勝利を神はキリストを信じる者すべての人たちに約束された。悪魔との試合はまだ続いている。監督はもちろん主イエスである。この方の器、選手としてプレーすれば、必ずや勝利が与えられる。ではその勝利の武具について考えてみよう。

霊的な戦いに勝利するために

霊的な戦いに勝利するために、ローマ戦士のイメージを比喩に用いて神の武具を身につけなさいと、パウロは励ましている。ローマ帝国に生きた一世紀の読者であれば、このイメージは容易に理解できたであろう。

たとえを言葉どおりに理解するのには限度がある。簡単に見分けられるたとえもある。「わたしは羊の門である」の門を文字通りに解釈する人はいないだろう。主イエスのたとえ話のポイントは、たとえ話全体にあるのであって、個々のたとえその物にはない。このエペソの聖句も例外ではない。個々のたとえを(真理=帯、正義=胸当て、平和の福音=足の履き物、信仰=大盾、救い=かぶと、神の御言葉=剣)それぞれ分析し、またローマ戦士の物理的な武具の役割を考慮して、霊的な武具の役割を説明している注解者がいるが、そこにはあくまで限度があることを読者は認識しておきべだろう。

主イエスが与えてくださる霊的な武具は、キリスト者が常日頃、身につけておかなければならない。そうしなければ、いとも簡単に悪魔の策略にはまってしまう。武具を心に刻みつけ聖霊によって日々祈ってこそ、主イエスの力による勝利はキリスト者に与えられる。霊的な戦いは本当に存在する。現実のものである。夢物語でも妄想の世界でもない。その戦いを認識していてもいなくても、悪魔は日々キリスト者を悪の道へ導こうとしている。

その事実を知っているからこそ、パウロは自分のためにも祈って欲しいとエペソの兄弟姉妹に頼んでいる。21世紀に生きるわたしたちも同様である。お互いに祈りあい励ましあい、勝利の道へと進みたいものである。

パウロの結びの言葉(6章21節―24節)

他の獄中書簡(コロサイ、ピリピ、ピレモン)と同様に、パウロは典型的な言葉でエペソの手紙を結んでいる。特にエペソとコロサイを比べると、非常に似ていることに読者はお気づきかもしれない。パウロの同労者テキコが、両方の手紙を配達した事実から、エペソとコロサイは同時期に書かれたと解釈できる。この事からも、2つの手紙の最後のあいさつ文が似通っているのは不思議ではない。しかし、そこには主イエス・キリストの恵みと愛で、エペソの人々が満たされるようにという熱い祈りが送られている。

パウロは、常に人々が主の恵みに満たされるように祈っている。21世紀に生きる我々にも、同様の祈りが届いている。エペソの手紙において、パウロは、体系的に、主イエスの恵みに満たされたキリスト者の生活が、どのようなものかを非常に分りやすく説明している。またキリスト者の霊的な成長過程も具体的にパウロは言及している。聖書を学び成長したいと熱望している読者は、エペソの手紙から多くのことを学ぶことができる。

あとがき

ギリシャローマ帝国の1世紀の文化的・歴史的背景を考慮しつつ、パウロの本意を出来るだけ忠実に釈義したつもりである。同時に21世紀に生きる現代人にとって、どのように適用できるかを考えた。拙作なる注解を読んで頂き、少しでも役にたったと感じて頂ければ幸いこの上ない。筆者自身もこの注解を書くにあたり、主イエスの大いなる恵みを受けて感謝の念に絶えないことを最後に申し上げて、この注解の終わりとさせていただきたい。読者の皆様に、主イエスの大いなる祝福があるように、主の栄光がいつも輝くように。

 エペソの手紙の注解

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