コンテンツへスキップ 投稿日:2022年5月9日/更新日:2024年12月23日

エペソ1章1‐2節。三位一体の神

古代ローマ帝国の神殿

エペソ人への手紙1章1-2節と三位一体の神。この聖句は、最初の挨拶文なので、大多数の人が通り過ぎてしまいがちです。しかしこの短い聖句には、新約聖書の非常に重要な神学が含まれてします。その神学とは、三位一体の神と主なるイエス・キリストです。

手紙の挨拶(1章1節―2節) ローマ帝国1世紀の手紙のかたち

 「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなたがたにあるように。」

エペソ1章1-2節

使徒パウロは、一世紀における手紙の典型的な挨拶文の慣習に従っています。送り手、受け手、そして恵みと平安を祈る挨拶で始めています。クリスチャンでなくてもこのような形式で一世紀の人たちは、手紙をやり取りしていました。しかし、パウロの手紙と異邦人の手紙には大きな違いがあります。異邦人は、恵みと平安の媒体を神々に置いていましたが、使徒パウロは「恵みと平安が父である神と主イエス・キリストからあるように」と祈っています。

パウロは、他の手紙でもエペソの手紙の挨拶と同じ様式で書いています。このような理由で、パウロは慣例的な挨拶文を書いているに過ぎないと考える学者もいます。それがパウロの真意でしょうか。むしろ、この短い挨拶で、パウロはある深い意味を込めて書いたのではないでしょうか。この深い意味は、新約聖書全体に見られる神学です。驚くべき大きな神学的な意味が、この短い挨拶文に隠されているのです。

三位一体の神 父なる神

エペソ人への手紙1章1節-2節

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6・4―5)

旧い契約下では、申命記の聖句が示すように、主なる神は唯一です。神と主は、同じアイデンティティーを持っています。ところが、イエス・キリストは、神をご自分の父と呼び、また自分が父から遣わされた者であると宣言しました。イエスは、神とご自分との関係を「父と子」という言葉で表現したのです。厳密に言えば、神を父と呼べる方は、主イエス・キリストだけです。イエス・キリスト以外、天にいらっしゃる神を自分の父と呼べる人間はいません。天にいらした子なる神だけが、神を本当に知っており父と呼べるのです。しかし、神の恵みによってキリストは、信じる者に神の子となる権利を与えました。(ヨハネ1章12節)。この恵みによって、クリスチャンは、主の祈りが教えているように、「天にいます私たちの父よ」と祈れるのです。

しかし、私たち人間は、イエス・キリストを知らなければ、神に敵対して生きています。神から遠く離れた存在です。それにも関わらず、神はイエス・キリストによって、和解の恵みと平和を私たちに与えてくださっています(ローマ5章1節、2コリント5章18節)。ここに福音メッセージの根幹があります。使徒パウロは、この恵みを手紙の始めに明らかにしたのです。

三位一体の神 主イエス・キリスト

冒頭で書いたように、旧い契約では神と主が同一です。ところが、新しい契約下では、神と主が別々です。三位一体の神、つまり父なる神と主イエス・キリストは、違った役割を持っているのです。この事実は、もちろん三位一体の神(父なる神、子なる神、聖霊なる神)の概念なしには語れません。

旧い契約では三位一体の神の概念は、まだ啓示されていませんでした。神のひとり子であるイエス・キリストは、天から降り父なる神の御心通りに十字架の道を選びました。キリストは死から復活されました。その結果、すべての権能を父なる神から与えられ、すべてを支配する主となられたのです。天か万物のすべてが主イエス・キリストを崇めているのです。(マタイ28章18節-20節、ピリピ2章9節―10節)。

今日、神仏を唱える人はたくさんいます。その方々は、人間によって造られた像を拝んでいます。神仏に拝む心を持っていても、その人たちは神仏と主従関係を結んでいるのでしょうか。僧侶たちが拝む仏様は、天地万物のすべてを支配している方なのでしょうか。クリスチャンの信仰は、この点において決定的に違います。人間社会のすべてが、宇宙を含めたすべての自然が、主なるイエス・キリストの支配の下にあるのです。

クリスチャンは、主であるイエス・キリストの御国の権威の下に入ったのです。イエス・キリストと主従関係を結んだのです。では、この関係について、他の聖句を考慮にいれて考えてみましょう。

主イエス・キリストによる裁き

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7・21―23)

裁きの日には、すべての民族が集められ主イエス・キリストの前に立つと預言されています。「主よ、主よ」と言っているすべての者が、天の御国に入れるわけではないと、この聖句が明白に語っています。無条件の愛がよく語られますが、その愛とは「神が無条件に人間を愛していること」を言い表しているのです。無条件の救いではありません。イエス・キリストの十字架で示された愛は、高価な愛です。安売りの愛ではありません。何をやっても赦される、何でも受け入れる溺愛ではないのです。神の一人子の命という代価が払われている愛です。

新約聖書が教える「主イエス・キリスト」という神学は、新しい契約下にいるクリスチャンの信仰の根幹です。なぜでしょうか。クリスチャンは、この主なるイエス・キリストと主従関係を結んているからです。

人間が行うすべての隠れた事柄は、主イエス・キリストを通して明らかにされます(ローマ2章16節)。クリスチャンも含めたすべての人間は、「キリストの裁きの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けること」になります(2コリント5章10節)。そのすべての裁きが成就した時、主イエス・キリストは、父なる神に御国を返還すると預言されています(1コリント15章24節)。

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