信じることが怖い、信じることは難しい。イエス・キリストを信じるのはシンプルです。一見、矛盾する言葉ですが、どちらも真理をついています。
なぜ信じることは難しい

信じることは、一概にむずかしいことです。それには様々な理由があるでしょう。そのいくつかを考えてみましょう。信じるということは、だまされるかもしれないというリスクを負っています。
この世の中は、人を信用するには、あまりに世知辛い世の中になってきています。多くの人たちがだまされて、何か高額のものを買わされたり、 不良品を買わされたりしています。また政財界では常に不正が行なわれ、誰一人として真実を語らないのが常です。 またはプロスポーツでは、多くの人が薬物を使い、それが発覚しても否定し続けています。
さらに宗教の世界では、多くの新興宗教が、多くの人から高額の御布施をだましとっています。カルト的な宗教では、信者たちが殺人という犯罪まで犯してしまったのです。 伝統的な仏教の世界でも問題はあります。戒名料がなぜあんなに高いのか、とテレビや新聞紙上をにぎわしています。 このような世の中で、信じるということは、あまりに多くのリスクを負っているわけです。一度だまされたら、信じることが怖くなってしまうかもしれません。
信じるとは、人に委ねること
人が誰かを信じるとき、相手の人に委ねているのです。 人に委ねるとき、私たちの立場は非常に不安定なものですし、また事実不安を覚えます。
たとえば、私の幼い子供が、 地面から2メーター近く高い所にいたとします。私は下で待っていて、両腕を差し出して「飛び降りて私につかまりなさい」と言います。 子供は横の階段で下って降りてくるか、私を信じて勇気を出して飛び降りるかの、どちらかの選択肢があります。
飛び降りる場合、私の子供はすべてを私に委ねているのです。これは非常に不安なことです。まだ一度もやったことのないことですし、 高さに対する恐怖もあります。これと同じようなことが、人を信じる時にはあるのです。
信じることは易しい
しかし信じることは、易しいともいえます。 難しくしているのは私たち自身です。私の子供は、実際に私を信じて飛び降りました。そして大喜びではしゃぎました。なぜ私の子供は飛び降りたんでしょうか。 そこには「お父さんが絶対につかまえてくれる」という信頼感があったのです。嘘は絶対にない、と思ったのでしょう。
人間の心には、創造主なる神様からいただいている霊的DNAが宿っています。神様と私たちを結び付けているDNAです。ところが私たちは、このDNAを自らの手で汚してしまいました。その結果、神様を信じることが難しくなってしまいました。
もし私たちがこのDNAを呼び起こし、神様に立ち返ったらどうでしょうか。信じることは易しくなります。主イエス・キリストは、次のように私たちに呼びかけています。
心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
ヨハネの福音書14章1節 聖書協会
創造主の父なる神様を信じる
私たちを創造して下さった神様を信じることは、本当は易しいのです。健全な家庭で育った人にとって、自分の父母を信頼するのはたやすいでしょう。それと同じように、天のお父様を信じるのは、本来、私たちにとって自然な行為です。
主イエス・キリストは、天のお父様と私たちの関係を回復するために、天から降りてきました。私たちの霊的DNAを呼び起こすために、天から降りてきました。たとえあなたが信じていなくても、心を静めて祈ってみましょう。霊的DNAが呼び起こされます。私たちの心の目が開かれます。
前述したように、この世の中には、キリスト教も含めて様々なだましの宗教があります。そのような事例に目を奪われる必要はありません。ただひたすら、主イエス・キリストの教え、戒めを聞いてみましょう。さらに主イエス・キリストの名によって、天のお父様なる神様に祈ってみましょう。あなたの霊的DNAが修復され、信じることが易しくなるのです。
読者の皆様の上に、神様の大いなる恵みが宿りますように。
この先何が待っているのか分からなくても、神さまはすでに全てをご存じで、私達はその御手の中にあると信頼することができます。共に神さまに委ねて一歩踏み出しましょう。
アーメン。感謝します。