神の教会の指導者の資格

立川キリストの教会の伝道者である福嶋正剛さんの寄稿です。テモテへの手紙第一3章から、神の教会の指導者の資格を解説しています。新約聖書が教えるリーダーシップの本質は、21世紀の教会にそのまま当てはまります。

霊的なリーダーを必要としていたエペソの教会 

脇道にそれつつあったエペソの教会は、神のご計画を再確認し、祈りによって、軌道を修正する必要がありました。エペソの場合、教会の指導者たちの中に問題があったようです。教会が健全であるためには、健全な指導者が必要です。パウロはこの章で、キリストの教会が必要としているリーダーの資格について教えています。

第三伝道旅行の際、パウロはエペソの長老たちに、次のように語りました。「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神が御自身の血を持って買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」(使徒20:28)新約聖書では、長老と監督は同じ職務を指しています(使徒20:17、28、テトス1:5、7)。ところが、二世紀になると、監督が、長老の上に立つようになり、それまでは、複数の長老あるいは監督が一つの教会を牧していたのが、一人の監督が複数の教会を管理するようになります。

ユダヤ社会には、昔から長老という地位がありました。一方、ギリシャ社会には監督という役職があり、例えば、植民地を管理する役人も監督と呼ばれたそうです。ギリシャ文化においては、長老よりも、監督のほうが聞こえが良かったのかもしれません。今日、私たちの群れ(キリストの教会)は、頑固にも伝道者という名称を守ろうとしています。(その是非について論じる必要があるかもしれませんが。)しかし、世間的に考えれば、牧師の方が伝道者よりも聞こえが良いのは確かです。教団では、牧師の資格に満たない人が、伝道師と呼ばれているようですから、伝道者はその伝道師よりもさらに資格がない者という印象を与えかねません。それにも拘わらず、聖書的であろうとする信念を守り通して来られた、先輩の伝道者の方々に敬意を表します。権力欲は、パウロがこの手紙を書い時代にも、教会の大きな問題であったようです。

霊的なリーダー、長老・監督の資質

神の教会の指導者の資格

  パウロはここで、すでに監督を持つ教会に対して、改めて監督の資格を書き記しています。それは、エペソの教会が、監督の資格、またその仕事について再確認する必要があったからだと思われます。問題を起こしている長老たちを戒め、その職務を再確認させ、さらには新しい長老たちを選び出す時の基準を与えているようです。パウロはまず、「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それは素晴らしい仕事を求めることである。」という当時のことわざを引用します。長老あるいは監督は、地位よりも仕事です。それが反対になると必ず問題が起こります。

  パウロがここで列挙する監督の資格のほとんどは人格に関することで、社会的地位や学歴などには触れていません。「ひとはうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7)という旧約聖書の言葉を思い出します。私たちは子供たちに、大きくなったら何になりたいかとよく問いますが、それよりも大事なのは、どんな人になりたいかということです。

  監督の資格は、「非難されるところがない」という言葉から始まっていますが、それは、現監督の中には、外部から非難されるような人々がいたことを物語っているようです。外部の人々に対して伝道しなくてはならない教会のリーダーが非難されていたのでは、教会の働きを妨げてしまいます。「教会はそのリーダー以上に成長できない。」とよく言われます。厳しい言葉です。しかし、教会の頭(リーダー)は、主イエス・キリストです。監督には、その主によって与えられた領域を監督し、その仕事に関して主に報告する義務が与えられています。長老あるいは監督は、第一に主のしもべであり、主の権威の下に教会に仕える仕事が与えられているのです。

  「一人の妻の夫である」という表現は、自分の妻に対して貞操を守っている人という意味のようです。長老は良い夫でなくてはならないということです。また、「自分の家庭をよく治め、十分な威厳を持って子どもを従わせている人」であるということですから、長老は良い父親でなくてはなりません。長老あるいは監督は、自分の生活を、また自分の家族をよく管理することができていなければなりません。大きなものを任される前に、まず、任された小さいものにどれほど忠実であるかが問われます(ルカ16:10)。聖書は、監督になる人の能力よりも、人格、また、その地位よりも実際の奉仕を重視しています。学歴主義、能力主義が支配している日本の社会にあって、私たちは、この大事なポイントを見失ったら、エペソの教会の二の舞を踏むことになります。アメリカの教会でも、霊性や人格よりもその人の社会的地位や能力を優先させて監督を選んだ教会では、しばしばリーダーが問題を起こしていると聞きます。

  神と共に生きる生活を指導する人は、まず自分が神と共に歩んでいなければなりません。その人の心と生活がキリストによってよく監督されていなければなりません。長老には、神学校からの資格は求められてませんが、人生という神の学校において、まじめに学んでいる神の弟子であることが要求されています。

  人間はみな神のかたちに似るように創造されています。罪によって、人間性が歪められていても、それを完全に消してしまうことはできません。どの文化も道徳的な価値観を持っています。ここに示された監督の資格を否定する文化は恐らくないでしょう。あるいはパウロは逆に、クリスチャンのリーダーは、少なくともその置かれた社会の人々が認める正しい品性を身につけるべきであると教えているのかもしれません。クリスチャンになるということは、神の恵みによって人間が本来有るべき姿になるということです。教会の長老あるいは監督は、神の愛を体験し、神の恵みがその人のうちに働いている人でなければなりません。

執事の資格と役割

執事という言葉は、「しもべ」とも訳されますが、ここでは教会における特定の職務を指しています。執事の資格は、監督ほど厳しくはありませんが、やはり、生活態度に現れるその人の信仰を重視しています。ここで興味深いのは、執事の妻に関する資格が述べられているということです。新改訳では、「婦人執事」と訳されている言葉は、直訳すると口語訳のように「女たち」となります。その「女たちが」婦人執事を指しているのか、あるいは執事の妻たちを指しているのかは、聖書学者たちの間でも意見が分かれます。新改訳の脚注に「執事の妻」とあるということは、翻訳委員の中には、そのほうが適当と考えた学者たちがいたということです。教会では男女会員が協力することによってその仕事を行うことができるように。執事もその任務を果たすためには、妻の協力が必要であったようです。執事の任務がそうですから、長老の仕事はなおさらのことです。ここでも、夫婦関係、家族関係の大切さが示されています。

もう一つ注目すべきことは、執事の奉仕をりっぱに果たした人は、信仰について強い確信が得られると教えていることです。信仰の確信はただ単に学びから来るのではなく、奉仕から来ます。

教会は神の家

パウロは教会が神の家であり、また、この世にあって真理の柱、また土台であると教えています。私たちのような弱いものがどうして真理の柱や土台なり得るのでしょう。16節の敬虔の奥義は、前半はキリストの贖いのわざ、後半は、今なお教会を通して続くキリストの働きを指しているようです。私たちが神のわざを行うのではない、私たちは神のわざであり、神が私たちを通してご自分のわざを行われるのです。神によって私たちはこの世の光として、神の真理を示すのです。私たちは神によって選ばれた、神のご自慢の民です。神と共に生きることの素晴らしさを見せるためでした。教会は、神を信じる人々の集まりである前に、神に信じられている人々の集まりです。

立川キリストの教会 福嶋 正剛

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