テモテの手紙第一2章。教会での女性の働き  

立川キリストの教会の福嶋正剛伝道者に、テモテへの手紙第一2章の解説を寄稿していただきました。教会での女性の働きを解説。使徒パウロがテモテに与えた戒めと命令が、どのような背景で書かれたのか、またその意味を、福嶋伝道者はわかりやすく解き明かしています。

神の計画の実現のための祈り

エペソにおけるテモテの仕事は、目標を見失いつつあった教会を正しい方向に導くことでした。

そのために教会が、まず初めにしなければならなかった事は、祈りでした。祈りは、ただ自分の願いを神に聞いてもらう事ではありません。祈りは、自分が神の御心に従っているかを吟味し、自分を神に合わせようとするものです。主の祈りは、「御心が天で行われるように、地でも行われるように」祈る事を教えています。また、ゲツセマネの祈りを通して、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈る手本を主は示されました。神の救いの計画は、祈る教会を通して実現します。神のみわざは祈るクリスチャンを通してなされます。

 パウロは、すべての人々のために祈ることを勧めています。その目的はすべての人々の救いにあります。また、王と高い地位にある人々のために祈れということは、それらの人々がクリスチャンの生活環境を左右する権威を持っているからであると思われます。社会の秩序を無視して伝道することはできません。

 パウロは、クリスチャンは敬虔に、威厳をもって、平安で静かな生活をするべきであると教えています。平安な生活はこの世の誰もが求めているものですが、クリスチャンの場合、平安な生活そのものが人生の目標ではありません。この手紙の中で繰り返し出て来る「敬虔」(2:2、3:16、4:7、8、6:3、5、6、11)という言葉にクリスチャン生活の秘訣があるようです。敬虔とは神を敬い、神と共に生きる態度です。神と共に歩んでいない教会は、本来の目標から離れてしまいます。また、威厳は、敬虔がその人の内に生じさせるものです。人間は、まことの神以外のものに従って生きる時に、威厳を失います。

 教会がエペソの人々に教えなければならなかった真理とは、まことの神は唯一であること、また、イエス・キリストの十字架によって、神との失われていた関係が回復したということです。教会は、この福音を言葉だけでなく、生活を通して伝えなければなりませんでした。パウロはこの良い知らせと証しのために、宣伝者、また使徒として任命されたのです。神は信仰と真理を異邦人に教える教師としてパウロを任命しました。エペソのクリスチャンは信仰と真理に関するパウロの教えにこそ従うべきであり、間違った教えを伝えていた偽教師に耳を傾けるべきではなかったのです。

すべての人を救うための教会の協力体制

テモテへの手紙第一2章
Prayer photo created by jcomp – www.freepik.com

エペソ伝道の使命を受けていた教会は、祈らなければなりませんでした。無益な議論に走っている場合ではなかったのです(1:6)。男はこぶしをあげて言い争うのではなく、きれいな手を上げて、祈るべきでした。パウロはここで、男に祈るように命じています。男女を問わず、すべての人が祈るべきですから、男が「どこででも」祈るべきなのは、特定の場合を指しているようです。男性のみの集会や女性のみの集会では、この教えは無意味です。パウロはこの手紙の目的が、「神の家(教会)でどうのように行動すべきかを」示すためだと教えています(3:15)。とすると、この祈りに関する教えは、男女の同席する教会の集まりにおいて、その会衆を導く祈りを指しているようです。

エペソで問題を起こしていたのは指導者たちです。この教えは、無益な議論に走っていた「律法の教師」たちを意識した教えかもしれません。男性信者は、余計なことに力を注ぐのではなく、教会の本来の任務に精を出すように命じられています。

女性の立場と行い

 続いてパウロは、女性の服装や髪型についても注意しています。いつの時代でも、女性にとって自分を美しく飾るという事は、大きな関心であったようです。しかし、女性は外面的な飾りよりも、内面的な飾りで自分を美しくすべきであると聖書は教えています(参照。箴言11:22、31:30)。

すべてのクリスチャン女性は、教会の「看板娘」です。神の御心は、すべてのクリスチャン女性が内側から美しくあることです。ここに書かれている服装は、貧しい人々には縁がなかったようなものに思われます。男性に対する注意にしても、女性に対する注意にしても、教会にあってある程度の経済力や社会的地位を持ち、力のあった人々に対して与えられたものかもしれません。

パウロは、他の個所では、女性に教えるように命じていますから(テトス2:3~4)、ここで、女性が教えること自体のを禁じているのではないと思われます。このような教えも、当然男女が同席する集会にのみ当てはまります。パウロはここで、女性が教会において指導者的な立場から教えることを制限しているようです。

 パウロはこの教えの根拠として、創造の秩序について語っています。さらに、エバが蛇に惑わされたことも指摘しています。「子を産む時に救われる」という言葉は、文字通りに解釈すべき言葉ではありません。創世記の3章と関連させて理解すべきです。パウロが教会における女性の立場を創造の秩序に基づいて教えているとするなら、創造の秩序が続く限り、その教えは今日でも適用されるべきです。

 エペソの教会は、目標を見失ったために、教会内で争いや混乱があったようです。パウロは、主の御心は、エペソのすべての人々の救いであり、その目的のために教会が協力体制を整えなくてはならないことを指摘しています。教会において男性にも女性にも、持ち場が与えられており、教会は男女が競争するところではなく協力する所です。今日、長く日本の社会を支配してきた男尊女卑という誤った因習を修正するための努力が続けられています。しかし、教会は、模索する社会にただ右へ倣えするのではなく、謙遜な態度で、神のみことばに耳を傾ける努力を続けたいものです。

立川キリストの教会 福嶋 正剛

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です