クリスチャンが一生涯求めるべき宝とは。 人それぞれ意見が違って、答えは違うかもしれません。ある人は神様の御言葉である聖書が教える真理、またある人は信仰、希望、愛と答えるかもしれません。正確な答えはあるのでしょうか。
ユダヤ教律法学者たちやパリサイ人が求めていたもの
1世紀のユダヤ教律法学者とパリサイ人に、「何があなたがたの宝なのか」と質問したと想像してみてください。おそらく十中八九、「神の御言葉である聖書」と答えたのではないでしょうか。彼らは聖書(クリスチャンにとっての旧約聖書)を穴があくほど学んでいたのです。それほど学んだにもかかわらず、彼らは、神様の御心を知ることは出来ませんでした。主イエス様は、彼らに次のように諭しました。
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。(ヨハネ5章39節-40節)
聖書には、すべての観点から人生の真理が書かれています。それぞれの真理に驚くばかりです。その真理探究のために、どんなにあなたがヘブル語やギリシャ語に堪能であったとしても、神様の御心を知っているという証にはなりません。聖書を右から左まで全部暗記しているとしても、御心に適ったクリスチャンであると、主イエス様は保証していません。
クリスチャンが一生涯求めるべき宝
クリスチャンが一生涯求めるものがあります。それは、キリストの十字架に示された神の力と愛ではないでしょうか。
主イエス様はすべての罪人を裁く権威が与えられていたにもかかわらず、自らすすんで十字架の道を歩み、我々の罪のために十字架上で死なれました。一時的に、悪魔であるサタンが勝利したと確信した時かもしれません。人間的な目から見れば、主キリストの十字架は弱さの象徴であり、愚かにしか見えません。神の子と呼ばれた方が、人間の手によって、無残な形で殺されてしまったのですから。しかし、この十字架に主イエス・キリストの福音の力が示されているのです。
イエス・キリストは、神の一人子でしたが自ら心の貧しい者となり、心砕かれた弱い者として、十字架にかけられました。父なる神様は、この方を死から復活させて高く上げて、天地すべてを支配する権威を与えました。ここに福音の真理があるのではないでしょうか。
福音の真理を理解していた使徒パウロは、「私が弱いときにこそ、私は強いのです」と書いています(2コリント12・10)。また主イエス様は、三度祈ったパウロに、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と諭しています(2コリント12・9)。
パウロの命題、すべてのクリスチャンの命題
しかし、使徒パウロは、主キリストの十字架に示された神の力、すなわち福音の真理を一生涯求め続けていくと、次のように書いています。
わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。…兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(ピリピ3・10-14)
使徒パウロの命題は、すべてのクリスチャンの命題でもあります。クリスチャンは、天に召されるその時まで、キリストの十字架で示された愛、力、知恵を求め続ける命題をいただいています。もし止めてしまったら、クリスチャンとしての成長も止まる時です。中途半端なクリスチャンになってしまうでしょう。
キリスト教には、いろんな雑音が多すぎるように思えます。いろんな教派の牧師が、様々な意見を唱えて、信者を惑わしている現実がないでしょうか。ネット上のクリスチャン同士の議論を読みますと、キリスト教は今混迷しているかもしれないという危惧を感じます。
結論 クリスチャン信仰の礎
へブル12章2節には、クリスチャンの成長の心得が書かれています。牧師・先生に目を向けても仕方ありません。心のクリスチャンは、常に主イエス・キリストを見上げ、主再臨の時まで、主の名に祈り求めるべきではないかと思うのです。 読者の皆様の上に、主イエス・キリストの祝福が宿りますように。