ヨハネの福音書から神の御心を考えてみよう。今回は、ヨハネの福音書1章1‐4節、人間の暗闇に輝く命の光について考えてみる。イエス・キリストは、どんな方であろうか。私たち人間に何を伝えるために、天から降りてきたのだろうか。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。…言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネの福音書1章1‐4、14節 聖書協会
神のことばによって世界は造られた
神は天地万物すべてを創造された。神のことばによって創造されたのだ。ところが人間は、神の存在と権威を認めようとせず、人間自ら造った偶像を拝んでいる。すべての命が、神によって支えられていることも認識しようとしない。神は人間に溢れんばかりの自然の恵みを与えているにもかかわらず、人間は神の愛をまったく無視している。
ことばは人と成られ、この世に住まわれた。この方すなわちイエス・キリストは、そのすべての創造の過程において父なる神と共にいた方である。主イエスは、唯一の神の御心を伝えるために、神の愛を伝えるために、天から降ってきたのだ。私たちの罪の贖いのために、十字架上で死なれ復活した。
それでも、人は神の愛を認めようとしない。イエス・キリストを認めようとしない。この方に命があることも知らない。人間は、自分の知識や知恵で命の意味を見つけようともがき苦しんでいる。なぜだろうか。
暗闇の中にいる人間に・・・
人間は暗闇の中にいるからだ。しかし、自分が暗闇にいることさえ知らないのである。なぜだろうか。光が照らされるまで、その暗闇がどんなに暗いかを知らないからである。
すべての人間は、主イエス様が与えてくれる光を必要としている。心に差し込んでくる一筋の光を、私たち人間はどこかで熱望しているのだ。その光を求めてもがき苦しんでいるのが、人間社会ともいえる。
わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。ヨハネ8章12節 聖書協会
心から主イエス・キリストを信じ心に光が差し込んでくると、何が起きるのだろうか。まず第一に、自分の立ち位置を知るようになる。自分がどこにいて、どこからきたのか、またどこへ向かおうとしているのかを知ることができるのだ。
暗闇の中ではまるで迷路である。暗中模索の人生だ。どこへ行っても行き止まりのような気がしてくる。何をやってもうまくいかないような思いが、常に心にどんよりと淀んでいる。

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光が差し込んでも・・・その後が大事
主イエス・キリストは、私たちの霊的な目を遮っている障害物を取り除いてくれる。ハッキリと見えるようにしてくれる。しかし、一瞬にして暗闇から明るい所に出るのではない。徐々に明かりが差してくる。神の不思議な力が働いて下さり、私たちの心の重荷が取り去られていく。
しかし、ここで騙されてはいけない。悪魔は、常に偽物の光を用意して、私たち人間を騙そうとしているからだ。偽のイエス・キリストを信じてはいけない。主イエス・キリストを心から信じて、その教えを実践していくことによって命の光がくる。
主イエス・キリストの真理とは、暗闇の中に輝く光ともいえる。この光を受けるためには、主イエスの戒めにとどまることが必要不可欠だ。これからヨハネの福音書を学ぶにあたって、この原則は忘れてはならないと思う。
読者の皆様の上に、主イエス・キリストの豊かな恵みが宿りますように。