さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」ヨハネ1章19-34節 聖書協会
バプテスマのヨハネの生き方から、チームワークの大切さを学んでみましょう。人間には元々「自分が・・・自分が・・・」という自己顕示欲の塊みたい所があります。近年、この傾向が、どの世界を見ても多くなってきた気がしてなりません。政治の世界でも、スポーツの世界でも、芸能界においても、「自分中心の世界」に多くの人たちが生きているように思えます。こんな世の中だから、いろんな分野で不祥事が起きています。
バプテスマのヨハネ
ヨハネは、「私はキリストではありません。・・・ イエスは私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」と証言しています。

なぜバプテスマのヨハネは、このように自分を下げるようなことを言ったのでしょうか。今の世相とは全く逆の言葉です。自分を下げるような態度を持つ人は、よほどの人格者かバカな人と思われてしまいます。現代社会ではあまり考えられないことです。
参照記事
チームワークの大切さ
スポーツ観戦から学ばされることは、数多くあります。たとえば、サッカー。11人の一人一人が自分の役割を理解しているチームは強いでしょう。確かに、メッシやロナウドのような優れた選手がいるチームは、その一発逆転の脅威をもっています。しかし、いくら一人のプレーヤーが個人技に優れていても、一人ではサッカーは出来ません。一個人のすばらしいシュートも、そこにパスを出す人がいなければ現実に起きません。
このチームプレーの精神は、神から召されるという事に当てはまります。ここにヨハネという人がいます。彼は臆することなく自分の役割をはっきり言いました。しかし、人には自分の能力以上のこと、与えられた役割以上のことをやりたいという欲望があります。自分が!自分が!という世の中では当然のことかもしれません。人はこれを向上心と呼びますが、聖書は罪と呼んでいるのです。
われわれが言う向上心とは、勝手な思い上がりかもしれません。他の人を省みずに、自分を高めるだけを考える人間の性です。 神を信じる初めは、へりくだる心から始まります。この謙虚な態度をもっていれば、「自分には誇るものもない。むしろ、どす黒い罪の心が宿っている」と認められるのです。
参照記事 ルカ3章15-22節。ヨハネの証言、ルカ3章1-14節。洗礼者ヨハネの宣教、ルカ7章18-23節 バプテスマのヨハネ
「私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」これはヨハネの信仰告白でもあり、また罪の告白です。 ヨハネは自分の働きに目を向けずに、神の子であるイエス・キリストの働きに目を向けました。これが人に求められている態度ではないでしょうか。
罪を悔い改める時
私たち人間は、自分の良い行いや働きに目を向けさらに他人と比べて、無意識に優越感をもってしまいます。または、競争心を煽られ他人よりも目立ちたいとか考え、人間の誉れを求めてます。それがおぞましいことであるとわかっていても、人は誘惑に負けてしまうのです。結局、そのような自己中心的な考えは人間の当然の権利だと思ってしまいます。
しかし、バプテスマのヨハネは、まったく違った人生観をもっていました。自分が低くなることをいとわなかったのです。なぜなら、ヨハネは自分の役割、ミッションを知っていた忠実なしもべであったからです。これはちょうど使徒パウロが、ローマ12章で言っている言葉といっしょだ。
自分を過大評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰に度合いに応じて慎む深く評価すべきです。ローマ12章3節 聖書協会
私たちも、バプテスマのヨハネのように、天にいらっしゃる主イエス・キリストに常に目を向けて生きるべきではないでしょうか。この方に耳を傾け、この方から学び続けることに、キリスト者の生きがいがあるのだから。
横田キリストの教会のメンバーは、みんな恥ずかしがり屋でレビューを書きたがらないので、管理人自らレビューを書き込みます。自分で書いた記事に、自分でレビューを書くほど情けないことはないと思ってしまうので、いままでしてませんでした。
バプテスマのヨハネのようにヘリ下っている牧師さんって、あまり見たことがないです。自分を高めるので頑張っている人は多いです。皆様はどのようにお感じでしょうか。