主イエス・キリストは命の源というテーマで、ヨハネ6章26-35節を解説します。主キリストを信じるきっかけになれば幸いです。
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」…すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」ヨハネ6章26-35節 聖書協会
食べるために働いている?
人は何のために働いているのでしょうか。食べるため?、遊ぶため?、家族を養うためでしょうか。これらは身近なニーズとして当然の理由です。しかし、私たちの命の遠く先を見ると、まったく違った目的が見えてきます。「何のために働いているのかというよりも、結局、何のために生きているのでしょうか。
主イエス・キリストは、永遠の命に至るために働き生きなさいと教えています。この意味は何でしょうか。永遠の命は、天から与えられる命です。肉体の命ではありません。その永遠の命をいただくために何をなすべきかの疑問に、主イエス・キリストは答えます。「神によって遣わされた方を信じなさい」と。非常に遠まわしな言い方ですが、「わたしを信じなさい」と言っているのです。私たちは、この呼びかけにどのように応えるべきでしょうか。
石橋を叩いて渡るような感じで…
統一教会やエホバの証人のような宗教団体が、大きな社会問題を起こしていますので、多くの人々が宗教には用心深くなります。読者の方々もそのようにお感じになっている方もいるかもしれません。
石橋を叩いて渡るような感じで、一歩一歩確かめながら主イエス・キリストのついて学んでみましょう。人間が作る宗教は、キリスト教であっても人間を教理で縛り付けます。主イエス・キリストはそんなことはしません。そのような教会を通してではなく、主イエス様はいつでもどこでも私たちを招いています。1対1の関係を求めているのです。だから主イエス・キリストがどんなお方かを知りましょう。
参照記事
- ヨハネ4章7-15節 イエスが与える水
- ヨハネ4章16-26節 神を礼拝する
- ヨハネ5章19-30節 父なる神とイエス
- ヨハネ7章16-28節 真理を求める
- 永遠なるキリストとYHWH
- 食べることは生きる事か、マタイ4章4節
主イエス・キリストは命の源
パンが主食であったユダヤ人たちに、主イエス・キリストは「わたしがいのちのパンである」と言いました。主キリストは、命の源泉、命の源を私たちに与えてくださいます。ここが肝心要な点です。教会に行くこと、聖書を読むこと、祈りをすること、すべて大事ですが、主イエス・キリストが臨在していなければ、それらの行為は無意味です。主イエス様だけが、命を与えてくださいます。
誰かを信じることは、人間にとってたやすい事ではありません。むしろ難しいでしょう。騙されるかもしれない危険が伴います。実際に、宗教団体によって騙されている人たちが、この世の中に数限りなくいます。心のトラウマから抜け出せない人たちです。しかし、そのような宗教団体を通さなくても、主イエス様を知ることはできるのです。主イエス様に祈り求めましょう。この方は、あなたがクリスチャンではなくても、祈りに応えてくださいます。
どうか読者の皆様の上に、主イエス様の豊かな祝福が宿りますように。