宗教の権威に騙されてしまったユダヤ人たちから学んでみましょう。権威が何であろうと、社会全体がその権威を認めていれば、人はその実態は知らなくてもその権威にひれ伏します。この様な理由で、1世紀のユダヤ人たちも、古代ユダヤ教という宗教の権威にだまされてしまったのです。
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。ヨハネ11章45-53節 聖書協会
ユダヤ教の権威が脅威にさらされる
ユダヤ教の権威は、(旧約)聖書を解釈した律法学者の言い伝えによって築かれました。ユダヤ教のリーダーたちは、イエスに脅威を感じていたので何とかしなければなりません。ユダヤ教の最高法院に集まり話し合いましたが、良い手立てが見つかりません。
その時、大祭司カイアファが「イエスは国民のために死ぬべきである」と証言したのです。彼自身、これが神様の啓示であると気づかずに話しました。この日から、彼らはイエスを殺す方策をいろいろと考えました。自分たちの手で殺すわけにもいかず、ローマ帝国の法律によってイエスを処刑させたのです。
神様の啓示を受けながらも、それに気づかないキリスト教のリーダーたちは今日でも存在します。自分の宗教の権威によって、いとも簡単にだまされてしまっている人たちです。
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権威に追随する人たち
宗教のリーダーたちは、自分自身をだますだけではありません。他の人々をも巻き込んでいくのです。宗教の権威に追随する人たちがいるからです。イエス・キリストの教えを聞き奇跡を見ても、多くの人々はイエスをメシヤとし受け入れませんでした。主イエス様が、神様から遣わされて真理を語っているとは考えられなかったのです。
21世紀の宗教的状況は、1世紀とは変わりはありません。多くの人々は、キリスト教の権威という人たち、「先生」に耳を傾けます。この人が言っていることであれば、間違いはないだろうと考えてしまいます。自分で真理を求めることを止めてしまうのです。
主イエス・キリストの招きは、極めて個人的に一人一人に語られています。新しい契約では、代弁者として誰かが送られている訳ではありません。新約聖書を書いた人々も一般信徒も、クリスチャンとしては変わりはありません。一人一人が神様を知る権利を、直接、神様から聖霊として頂いているのです(へブル8章)。新約聖書を書いた人々は、その真理を1世紀の教会のニーズに従い、福音書や手紙を書きました。
参考記事
人間の権威が人を盲目にする
人間が作り上げた宗教の伝統が、私たちを盲目にすることはないでしょうか。キリスト教のどんな教派に属していても、この危険性は常に伴います。自分が所属している教会の伝統は、誰もが大事にしたいのではないでしょうか。
自分が受け継いできた伝統が、神様の御心よりも大切してしまう時があるかもしれません。主イエス・キリストは、そんなユダヤ教律法学者たちに次のように言いました。「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」と(マルコ7章13節)。
私たちは、常に謙虚に真摯に、自分たちのキリスト教の伝統に向き合うべきです。キリスト教の伝統が、主イエス・キリストの上に来ることはあり得ません。ある教派の教会に属していても、常に主イエス・キリストが一番に来るように、礼拝生活を日々送りましょう。
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