ある人はキリストを信じますが、信じない人もいます。信じない理由は人それぞれかもしれませんが、唯一の原因があるようです。その原因は何かをご一緒に考えてみましょう。
イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。 「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。ヨハネ12章36-43節 聖書教会
神は彼らの心をかたくなにされた
ユダヤ人たちは、イエス・キリストを信じませんでしたが、その理由をヨハネはイザヤ6章10節を引用して説明しています。「神は彼らの目を見えなくして、心をかたくなにされた」と書かれています。文字通りとると、神が彼らを信じなくさせたとも読みとれます。
神は、特定の人たちをこのように拒否するのでしょうか。キリスト教神学の中に、誰が救われるかは、神によってあらかじめ定められているという教理がありますが、この聖句は「予定説」を証明しているのでしょうか。
神はファラオの心をかたくなにされた
旧約聖書の出エジプト記に、「神はファラオ(新改訳はパロ)の心をかたくなにされた」と書かれている箇所(7・3、10・20、27、11・10)もあります。同時に、ファラオが自分自身の心をかたくなにしたと記されている箇所もあります(7・15、8・32)。ファラオが心をかたくなにした原因は、主なる神にあります。神のわざを見て、彼自身、心をかたくなにしたのです。
しかし、ファラオは、自分の意志に反して、心をかたくなにさせられた訳ではありません。彼の自由意志によって、自分で心をかたくなにするのを選んだのです。このように、すべての大元は主なる神にありますが、私たち人間は自由意志によって神の御言葉に反応しているのです。
では、ユダヤ人たちがイエス・キリストを信じなかった理由を、他の聖句を引用して考えてみましょう。
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イエスが真理を語っているから信じない
イエス・キリストは、信じないユダヤ人たちに次のように言いました。
しかし、わたしが真理を語るから、あなたがたはわたしを信じない。
ヨハネ8章45節 聖書教会
彼らがイエス・キリストを信じられなかった理由は、驚くなかれ、イエスが真理を語っていたからです。神の真理が彼らの心に突き刺さり、彼らのプライドが逆に燃え盛ったのです。彼らは自分自身で真理に目を閉じて、心をかたくなにしたのです。
現代日本でも、多くの人々がイエス・キリストを信じません。それは神が、日本人をはじめから拒否して、救いの道を閉ざしている訳ではありません。神はすべての人間が悔い改めて、救われるのを望んでおられます(1テモテ2章4節)。
真理を求める人は、神の聖霊によって導かれ主イエス・キリストを出会うことができると、約束されています。たとえイエス・キリストを信じていなくても、心から天の神に祈ってみましょう。必ず主イエス・キリストの言葉があなたの心に届くはずです。
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アーメン。神さまのみこころに従うと、どんなに辛い状況であっても霊に平安があります。主に希望を託せる事を感謝します。
宗教、哲学、生き方、いろいろあれど、真理は一つではないでしょうか。万が一、イエス・キリストがその唯一の真理を語っているとすれば、検証するに値すると思います。信じていなくても信じていても、イエス・キリストは私たちを見守ってくださっています。