「キリストを信じて祈れば、何でもかなえられることを信じなさい。かなえられていない時は、祈りが足りないのです」というメッセージをネット上で聞いたことがあります。読者の皆様は、次の聖句をどのように理解すればいいと思いますか。
わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。ヨハネ14章13-14節 聖書協会
上記の聖句を、文脈を無視して文字通り読むと、「願うことは何でもかなえられる!だからもっと祈ろう。」と解釈されます。しかし本当に正しいのでしょうか。
キリストの名によって祈る時
クリスチャンは、キリストの名によって祈りますが、実はとても重要な意味が隠されています。キリストの名によってなされる祈りは、本来キリストの弟子だけができることです。主キリストに心からついていこうと決心している人が、キリストの名によって天のお父さまに祈るのです。
これはどのような祈りでしょうか。自分の思いではなく、御心に適った祈りです。「神の御心が行われますように」という祈りです。ですからヨハネは次のように書いています。
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。1ヨハネ5章14節 聖書協会
キリストの弟子であるキリスト者は、自分の願いがかなうように祈っている訳ではありません。神様を自分の思いのために利用するのであれば、まさにそれはご利益宗教です。むしろ、本当の祈りは、常に神様の御心に目が向けられているのです。
神様が褒め称えられるように
祈りの目的は何でしょうか。自分の思いが、かなえられるように祈ることでしょうか。神様の御心は何かを祈りつつ、キリスト者は「何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを知るために」祈ります(ローマ12章2節)。
結果として、神様が栄光を受けます。神様が褒め称えられます。憐れみ深い神様は、その栄光を私たちにも分かち合ってくださっています。日々の生活の中で、聖霊の力によって、栄光から栄光へと、私たちは造り変えられているからです(2コリント3章18節)。
御心に適った祈りは、健全なキリスト者、キリストの弟子にとってなくてはならないものです。常に主イエス・キリストを信頼して祈りましょう。
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