コンテンツへスキップ 投稿日:2024年12月18日/更新日:2025年1月31日

キリストとつながって弟子となる関係

葡萄の木

イエスと弟子であるクリスチャンの関係を、もっとも明確に説明しているたとえは何でしょうか。それはヨハネ15章1-6節の葡萄の木のたとえです。キリストとつながって弟子となる関係です。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。ヨハネ15章1‐6節 聖書協会

主キリストはぶどうの木 キリスト者たちは枝

私はぶどうの木をじっくりと見たことはありません。山梨県内を旅行中に横目で車窓から眺めた程度です。聞くところによると、ぶどうの木はとても大きくなるらしいのです。木の幹そのものが大きいのではなく、その幹からつながる枝が格子目状の板の間を四方八方に伸びていくのです。

主イエス様は、ご自身と弟子の関係を、このぶどうの木にたとえて説明しています。主イエス・キリストは、ぶどうの木であり、弟子たちは幹につながっている枝なのです。これ以上、完璧なたとえはないでしょう。

主キリストと弟子たちの間には、明らかな主従関係が存在します。弟子が主キリストにつながっていれば、弟子は日々の生活の中で主人から生き方を学びます。主人に従うのが、弟子の生き方であり、また義務であり特権なのです。この主従関係なしに、キリスト者は生きることもできないのです。

実際のぶどう栽培でも、その枝が幹からどんなに離れていても、幹とつながっていれば実を結びことが期待されています。しかし、実を結ばない枝は切られてしまうのです。

主キリストの弟子であるキリスト者の場合はどうでしょうか。

わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

ヨハネ15章6節

憐み深い主キリストが、つながっていない人は枝のように投げ捨てられ焼かれてしまうと言っています。これはどんな意味でしょうか。

これは、主イエス様がその人との師弟関係を断ち切ってしまうという意味ではありません。むしろ、その逆です。その人を愛しているがゆえに、主イエス様は鍛錬を与えるのです。罪深い悪い部分を取り除き、霊的な手術を施すのです。へブル12章7-11節に書かれているように、神はキリスト者をわが子として、霊的に鍛錬して鍛えているのです。鍛錬は決して喜ばしい楽しいものではありませんが、その結果、義という平和に満ちた実が結ばれるのです。

弟子は主キリストにつながっていなければ、何もできない

主イエス様は、もう一つ衝撃的な真理を私たちに明言します。弟子は主イエス・キリストにつながっていなければ、神様の御心に適ったこと何一つできないのです。この真理は、主イエス様がご自分と父なる神様との関係を説明した時にも語られています。「子は父から離れては何もできない」ように、弟子は主イエス・キリストから離れては何の力もないのです。

21世紀に生きるクリスチャンもまったく同じです。この真理を知っているにもかかわらず、愚かな罪人である私たちは、主イエス様に頼らず自分の力や知恵に頼って計画を立てたりします。無駄な労苦です。何の実を結ぶことはできないで終わります。

主イエス・キリストから離れては何の実りもない、と覚悟しましょう。聖霊を通して行われる神様の働きは、不思議なわざです。私たちが気づかない間に成されています。聖霊の実が、弟子の生き方に現れます。主キリストのアロマが、私たちの内からわき出てくるのです。だから、私たちは常に祈り主を褒め称えます。アーメン。

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