コンテンツへスキップ 投稿日:2024年12月26日/更新日:2025年1月20日

ヨハネ16章16-22節、悲しみが喜びに変わる

悲しみが喜びの花火に変えられる

誰の人生にも、悲しみと喜びは付き物です。その悲しみと喜びは、私たち人間の人生を変える出来事と共に起きます。ここに全人類の歴史を変える出来事が起きました。すべての人の人生を変えることができる主イエス・キリストが、十字架上で死なれ、死から復活されたのです。約2000年前、イエス・キリストの弟子たちは、主の十字架の死を見て悲しみ、復活を見て歓喜の声をあげたのです。

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」・・・「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」ヨハネ16章16-22節 聖書協会

キリストの預言 悲しみが喜びに変わる 

キリストが預言した「弟子たちが悲しむ日」とは、何のことでしょうか。言うまでもなく、この世で生きたイエス・キリストが、十字架上で死んだ日です。

キリストの預言を、21世紀に生きる私たちに当てはめて考えみましょう。私たちが生きている間、必ずいつかどこかで悲しみを経験します。自然災害、人災、犯罪・・・・。私たちが向き合う困難は、数限りなくあります。しかし、「悲しむ者は幸いです」と主キリストが言うように、私たちの悲しみを神様に向けると、その悲しみは幸いに変えられるのです。

悲しみは喜びに変えられるのですが、これは神様が神の民に定めた摂理ではないでしょうか。キリスト者はどんなにどん底に落とされようと、最後には勝利が待っています。喜びが待っているのです。

1世紀の弟子たちは、キリストの十字架の死を見て、途方に暮れていました。「先生が力なく死んでしまった」と思っていたでしょう。その弟子たちの思いは、見事に裏切られたのです。キリストは、悪魔の力に打ち勝ち、死からよみがえられたのです。復活の主です。弟子たちは歓喜の声を挙げました。このパターンは、聖書の物語の中に何回も出てきます。

人生再生の主、逆転の主イエス・キリスト

悲しみは喜びに変えられるというキリストの言葉は、21世紀に生きる私たちにも当てはまります。読者の方々の中にも、人生のどん底を味わった方がいるかもしれません。また、現在どん底を味わっている方もいるかもしれません。しかし、明けない夜はありません。夜が終わり太陽が昇り、明るい光に満ちた日が来ます。この原則で、私たちの人生も動いています。

人の人生のパターンは、人類の歴史が始まって以来、変わりはありません。山あり谷ありの人生だからこそ、人は成長できるのではないでしょうか。キリスト者にとっては、谷にいる時こそ、キリストに目を向けるときです。希望の時です。私たちは、いつも主にあって希望をもって生きていけるのです。パウロは、次のように書いています。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現れるはずの栄光に比べると、取るに足りない・・・。誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょうか。患難か。苦しみか。苦しみか。飢えか。裸か。危険か。剣か。ローマ8章18、35節 聖書協会

私たちが信じる主イエス・キリストは、人生再生の主です。日々、私たちを清めてくださり、新しくしてくださいます。肉体的な体は徐々に衰えていきますが、キリスト者の霊は信仰によって強められ、日々、聖霊なる神様によって造り変えられているのです。悲しむことがあっても、常に喜びへの橋がかけられています。

キリストは逆転の主です。復活の主です。野球の9回の裏、10対0で負けていて絶望的であっても、主イエス・キリストの力によって逆転できるのです。人生の絶望は、キリストによってかき消されています。聖霊の力によって、どんな困難もどんな敵に対して勝利が約束されているのです。

終わりの時には、この世に不法がはびこり多くの人の愛が冷えていくと預言されています。21世紀が終わりの時代です。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。主イエス・キリストに目を向けて、今日も生きていきましょう。

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