新約聖書の背景として古代ユダヤ教の信仰と行いを知ることは、より良い聖書解釈のために非常に重要です。なぜなら主イエス・キリストは、1世紀のユダヤ人たちに宣教したからです。
唯一の神
ユダがバビロンによって捕囚の民になった後、ユダの人々は偶像礼拝をしなくなりました。4世紀以降、ユダの人々の神の概念は、プラトン(ギリシャ哲学)によって提唱された神の概念と融合していってしまいます。
ギリシャ、ローマ、ユダは、それぞれ違った世界観を持っていました。ギリシャは人間を軸にした世界観、ローマは律法を軸にした世界観、ユダは神を軸にした世界観を持っていたのです。ユダの人々は、神によってより分けられ選ばれた民族であると自覚していました。
古代ユダヤ教では神への敬意を示すために、2つのことが行われるようになります。(1)神の行いは文法的に受けの形で表現されるようになります。能動態だと、あたかも人間の行いのように聞こえるからです。ギリシャ宗教の神々が人間化している慣習に反して、このようなユダヤ教の慣習が生まれたと思われます。(2)神の名をみだりに唱えてはならないという律法から、神の名は発音されなくなります。Yahwehの代わりにギリシャ語のAdonaiが使われるようになりました。
イスラエル、選ばれた民
選ばれた民という概念は、捕囚の後、ますます強くなります。たとえば、エズラ書とネヘミヤ書では、異邦人たちとの交わりを完全に断ち切っています。ユダヤ教律法学者たちは、神によって選ばれた民のアイデンティーとして、割礼と安息日を順守するように主張しました。
またイスラエルの父であるアブラハムの信仰と行いによって、イスラエルは選ばれた民であると信じられ、この選民意識は、ユダヤ人たちが堕落していた時でさえ、受け入れていました。イスラエルの残された民であるユダは、アブラハムによって選ばれた民族であるという理由で、神の裁きを受けないと信じられていました。
律法と言い伝えの律法
前586年にエルサレムが陥落したのは、ユダヤ人たちが律法に従わなかったからだと信じられていました。そのため律法を学ぶことが、何よりも大切であるとされるようになりました(2バルク85章3節)。このような理由で、律法学者たちが誕生したのです(エズラ7章6節)。律法学者たちは律法を一字一句書き写し、もし間違えれば、世界を破滅するほどの重い罪であると解釈されていたのです。
言い伝えの律法は、どのように成立したのでしょうか。モーセの律法は、文字通りに解釈されるべきではなく、律法学者の解釈を基に適用されるべきだと考えられいたのです。そのため律法学者たちの解釈をまとめた書が必要だったのです。
またモーセは、モーセ5書の律法の他に3000の律法を神から啓示されていた、とユダヤ教の伝統では伝えられています。律法学者がその3000の律法を書き上げたものが、後に言い伝えの律法となったのです。これらの言い伝えの律法は、モーセ5書の律法と同じ権威を持っていました。
神殿
ヘロデ王は、前20年には神殿の建設を始めましたが、主イエス・キリストが宣教した時にもまだ続いていました(ヨハネ2章20節)。ユダヤ人の反乱が起きる前、63年に完成したと記録されています。エジプトにいたユダヤ人、サマリアにいたユダヤ人たちもそれぞれ神殿を建設しましたが、一般のユダヤ人にとってはエルサレムの神殿が、本家本元であったようです。また神殿に使われていた用具などは、すべて旧約聖書の律法に書かれているように配置されていたと記録されています。
神殿の運営は、神殿に払う税金によって賄われていました。ユダヤ人の成年男子は、すべて税金を払うように定められていたようです。主イエス・キリストが、神殿の商業化を戒めて神殿から商人たちを追い出しましたが、この行為を律法学者たちは神殿の権威を冒涜したと解釈したのです(マタイ21章12-13節)。パリサイ派やサドカイ派の人々は怒り心頭したに違いありません。
祝日
安息日は、ユダヤ人たちのIDともいえる祝日でした。安息日の順守は、ユダヤ人たちの救いの保証でした。つまり、ユダヤ人が異邦人から区別され、神によって選ばれた民であることの証明でもあったのです。
安息日は、休みの日でしたが、同時に神を礼拝する日でもありました。安息日に出来ること、出来ないことは、言い伝えの律法によって事細かに決められていました。パリサイ派の人々は、言い伝えの律法を守らない主イエス・キリストを見て、論争を挑み迫害をしたのです。
過ぎ越しの祭りは、10人以上の人数で家族の中で取られていたようです。次のような手順で行われていたようです。(1)ワインと水を合わせたものが4つ用意される。(2)祈りと共に最初の杯を飲む。この杯とともに、数種類のハーブを食べる。(3)2つ目の杯を取り息子が「この意味は何ですか」と聞くと、父親がイスラエルの歴史を語る。そして2つ目の杯を飲み干す。(4)種なしのパンを食べ、子羊の肉からとって食べる。そして祝福の杯を飲む。(5)4つの杯がとられ、詩篇115-118を賛美をして終わる。
ユダヤ教会堂
ユダヤ人たちが、いつ頃から会堂で集まるようになったかは定かではありません。捕囚の民として帰還した後に、おそらく集会が持たれるようになったのでしょう。考古学的には前3世紀には、会堂は存在していた痕跡が見られます。
会堂の意味は、元々集会そのものを指していましたが、後に会堂である建物を指すようになりました。会堂の集会は、10人の男性が集まることが条件であったようです。会堂での礼拝は、祈りと聖書の学びで成り立っていました。集会は、毎週、月曜日と木曜日に行われていたようです。
また会堂は、ユダヤ人たちにとって非常に重要な場でした。祈りの場所や集会の場所だけでなく、その地域の相談所の役割も果たしていました。また学校の役割も持っていたようです。
以上、古代ユダヤ教の信仰と行いを短くまとめてみました。ユダヤ教の信仰と行いまた慣習を知ることは、新約聖書を理解する上で欠かせないと私は思います。読者の皆様のお役にたてれば幸いです。
新約聖書の背景
- 使徒パウロの宣教とその背景
- 新約の背景と1世紀の哲学
- ローマ帝国の家族構成
- 古代ローマ帝国の経済社会
- 古代ローマ帝国の階級社会
- 新約聖書の背景とユダヤ教の発展
- 古代ローマ帝国の宗教
- 新約聖書の背景とローマ帝国の道徳感
- ユダヤ教の発展と教派
- 新約聖書の背景と中間時代
- 外部リンク ローマ帝国
参考文献
- Ferguson, Everett. Backgrounds of Early Christianity, 2nd ed. Grand Rapids: Wm B. Wwedmans, 1993.
- 桜井万里子、木村凌二。ギリシャとローマ。世界の歴史、第五巻。中央公論社、1997年。
- 村川堅太郎。ギリシャとローマ。世界の歴史、第二巻。中央公論社、1995年。
- 島田誠。古代ローマの市民社会。山川出版、1997年。
ユダヤ教の律法ってモーセ五書の他に存在していたんですね。初めて知りました。律法学者達がイエス様が律法を破る者と訴える背景にはユダヤ教独自の律法があったのだと理解出来ました。ありがとうございます。
そうなんです。福音書では「昔の人の言い伝え」新共同訳、「長老たちの言い伝え」新改訳と訳されています。これが彼らの律法でもありました。