隣人愛の実践

「隣人愛の実践」混迷の時代に主イエス様にあって生きるために 

隣人愛の実践がカギ。この混迷の時代に私たちは、どのように生きるべきなのでしょうか。主イエス様の戒めである、「隣人を自分のように愛す」の原則に答えがあります。

人類の歴史と終末

人類の歴史は、一言でいえば波乱万丈。私たち人間は、古代から現代まで様々な形で、喜びや悲しみ、至福の時や苦難の時を経験してきました。

今は21世紀、その21世紀の約5分の1が過ぎました。「21世紀は混迷の時代」と言えるのではないでしょうか。アメリカでの同時多発テロ、地震、津波、コロナ・ウィルス、政治的な混乱が続いています。このような状況は、イエス・キリストの教えによれば、「この世の終わり」に一歩一歩着実に近づいている実態を表しているのではないでしょうか。しかし、「終わりの時」までには、まだ一山も二山もあり、山あり谷ありが続くでしょう。不安と怒りが交錯する混迷の時代においても霊的に成長するために、クリスチャンは常に主イエス・キリストに目を向けて生きるべきでしょう。今日は、主キリストへの原点回帰として隣人愛について考えてみましょう。

第一の戒めと第二の戒め

主イエスは、「戒めの中で何が一番大切ですか」と聞かれた時に次のように答えています(マルコ10・28‐31)。第一は、「われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、第二は、「隣人をあなた自身のように愛せよ」と。「一番大切な戒めは何か」と聞かれ、一つではなく二つの戒めを与えています。なぜ主キリストは、あえて二つの戒めで答えたのでしょうか。なぜなら、二つの戒めは、実は二つ合わせて一つの戒めであることを示しているからです。

「神を愛する」と「隣人を自分のように愛する」は、お札の表裏一体の関係と似ています。片方が偽であれば全部が偽物。バプテスマを受けてクリスチャンになり、神を愛していると告白しながら、主の兄弟姉妹を憎んでいる人は、今もなお闇の中にいるのです(1ヨハネ2・9)。そのような人に、神の愛は完成されていません。しかし、私たちの生活の中で、すでに神の愛が完成しているなど考える人はいないでしょう。日々、主の弟子として成長していくために、一心に神の愛の実践、すなわち「神を愛する」と「隣人を自分のように愛する」を実践すべきです。

「隣人を自分のように愛する」は、どのように実践できるのか

では隣人愛をどのように実践できるのでしょうか。隣人愛の実践は、神を愛する実践よりももっと難しいと感じられるかもしれません。それは、隣人愛が非常に曖昧に定義づけされているからです。私たちは、隣人愛を誤解しているかもしれません。

たとえば、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にもしなさい」(マタイ7・12)を誤解している可能性があります。善意のつもりでも相手には迷惑だった場合はないでしょうか。押しつけの善意になっている時はないでしょうか。また、自分がやって欲しくない事を、善意で他の人にやってしまうことがないでしょうか。また、自分にとって良い事でも、他の人には良いとは限らない場合があります。隣人愛は、私たちの人生の終わりまで、私たち自身が学び続け、実践する必要がある人生の課題です。

主キリストの完全なお手本

隣人愛の実践

主キリストは、どのように「隣人を自分のように愛した」のでしょうか。主は、神の愛によって、人にどのように接したのでしょうか。主は、「自分がしてもらいたいことを他の人にする」を実践しています。主は、私たちに完全なお手本を示しています。主の隣人愛の実践から3つの原則を学んでみましょう。隣人愛の原則は、この3つとは限りませんが、ここでは3つに絞って考えてみます。

(1)人の自由意志を尊重する

神は、人を創造された時から、人の尊厳として自由意志を与えています。人は、操り人形ではなく「神に似せられた者」として創造されました。神は、何の束縛も受けない永遠なる神です。何にも縛られない自由をお持ちの神です。神は、その自由を人間にも分かち与えて下さっています。主キリストも自由意志を持っていたから、人の自由意志を尊重したのです。だから、主は「聞く耳のある者は聞きなさい」と、私たちを招いてくださっているのです。

「自由意志」は、人間に対する神の憐れみです。使徒ペテロは「自分だけは、決してはあなたを裏切ることはない。つまずくことはない」と頑固にも主張しました。もし主キリストがペテロを止めていたら、どうなっていたでしょうか。主キリストがユダを諭して裏切り行為を止めていたら、どうなっていたでしょうか。ペテロもユダも、人間として成長することはなかったでしょう。

神の愛は、確かに、私たち人間に対する一方的な愛です。そして、その永遠の愛によって、神は主キリストを十字架につけました。しかし、神は、私たち人間に十字架で示された愛を押し付けたりはしません。神は、私たち人間の悔い改めを忍耐強く待っておられるのです。同様に、主キリストは、忍耐強く人々に神の愛を解き明かしました。

しかし、主は、決して上目線で人々に話すことはありませんでした。なぜでしょうか。人々を自分のように愛していたからです。上目線で話している人、偉そうに話をする人を好きになれるでしょうか。主は、押しつけの善意などしません。神の愛という一番素晴らしい贈り物でさえ、主は押し付けたりはしません。たとえ良い物であっても、押し付けられてうれしい人はいないでしょう。

私たちは、主キリストから人の自由意志を尊重して忍耐強く接する重要さを学ぶことが出来ます。私たちは、主が人を愛し忍耐強く人の悔い改めを待つように、私たちも待つのです。その人のために祈りましょう。

(2)人のニーズ、求めているものを知ろうとする

主キリストは、私たち人間が必要なものを知っています。しかし、同時に私たちのニーズ、求めているものを知ろうとします。マルコ10・46‐52を読んでみましょう。主は、エリコの町で盲人の人に出会います。主は、この盲人が神との健全な関係を必要としていると知っていますが、それを押し付けず逆に「何をしてほしいか」とこの盲人に尋ねます。主は、決して上目線から人に話をするのではなく、人々のニーズを知ろうとする憐れみの心を持っています。

人の話を聞いて人のニーズを知るのは、とっても大切なことです。カウンセリングのクラスでは、「傾聴しなさい」、「アドバイスはするな」と教えられますが、私は多くの間違いを犯してきました。今になって私は、傾聴が非常に大切だという「明らかな理由」を知るようになりました。傾聴によって、その人の「人と成り」を知ることができるのです。その人が、何を考え、何を欲しているのか知ることができます。「隣人を自分のように愛する」とは、人のニーズ、人が何を欲しているかを知ることから始まるといってもいいでしょう。単なるお節介でもなく押しつけでもなく、「誠実に人の話を聞き相手の方のニーズに耳を傾ける」ーこれは非常に単純明快な原則ですが、実践は極めて難しいのです。私たちの霊性の欠如が難しくしています。だからこそ、私たちは、主キリストから隣人愛を日々学び続けるのではないのでしょうか。

主は、「わたしは心優しく、へりくだっているから、…わたしから学びなさい」と言っています。これが主の隣人愛の実践なのです。

人が自分の心を打ち明けられる人とは、どんな人でしょか。また、人は、どのような人から学びたいと思うのでしょうか。「私は何でも知っている。あなたは何も知らないから、私が教えてあげよう」と偉そうに話す人から学ぼうとするでしょうか。どんなに博学であっても、このような人から学んでみたいと思う人は、少ないのではないでしょうか。主キリストのように心優しい、へりくだった人に、自分の心を打ち明けるのではないでしょうか。つまり、隣人愛を実践している「へりくだった人」に、私たち人間は心を開き、話を聞いてもらいたいと思うのです。

このように、主キリストは、私たちに隣人愛の最高のお手本を示して下さっています。私たちは、主キリストのお手本なしには隣人愛を学ぶことはできません。隣人愛の実践は、なおさらできません。主は、日々、私たちに「わたしから学び、隣人をあなた自身のように愛しなさい」と語りかけています。私たちが、心からへりくだり主から学び始める時、私たちの人生そのものが変わっていくのではないでしょうか。本当に意味で、聖霊によって新しく生まれるのではないでしょうか。では次に第三の原則を考えてみましょう。

(3)人のベスト、人の成長を常に期待する

主キリストは、私たちのベスト、成長を期待しています。たとえば、マタイ5・43‐48を読んでみましょう。ここで、主は「敵を愛しなさい」と諭しています。神は、完全な愛で敵を愛します。その同じ愛を、主は私たちに求めています。1ペテロ1・16には、「神が聖であるように、あなたがたも聖になりなさい」とも書かれています。このように神は、私たちのベスト、成長を望んでいるのです。私たちも、隣人愛によって、隣人のベスト、成長を期待するように求められているのではないでしょうか。しかし、隣人を裁いたりはしません。上目線で見ることもしません。むしろ、その人のために神に祈るのです。

神は、私たちの成長を期待するからこそ、私たちが求めるものを与えて下さいます。マタイ7・7‐12を読んでみましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます」と主は言っています。主は、御心によって人が求めている物を惜しみなく与えて下さいます。憐れみ深い神は、求める者の祈りに答えてくださるのです。私たちも、同じ憐れみの心が求められています。自分が憐れみを受けたければ、他の人にも憐れみを施しなさいと。

私たちは、主キリストに習い、人にしてもらいたいことを隣人にもします。この隣人愛の実践には、敬虔な祈りと健全な自己愛が必要です。自己愛といっても「自分の欲求を満たす自己中心的な思い」ではありません。自分が神によって創造されて、愛されている自覚に基づく自己愛です。隣人も、同じように神によって創造され愛されているからこそ、「隣人を自分のように愛しなさい」と諭されているのです。この隣人愛の実践が、教会メンバーのお互いの成長を促していることについて、最後に考えてみましょう。

隣人愛の実践によるお互いの成長

伝道者・牧師と教会メンバーの関係を考える時、伝道者・牧師は先生であり教会メンバーは信徒という構図が浮かび上がります。伝道者は霊的成長している人、信徒は霊的成長をすべき人という構図を考える人もいるかもしれません。しかし、本物の教会に、隣人愛の実践に、このような構図は存在しません。隣人愛の実践によって、教える人も教えられる人も両方が、霊的に成長していく必要があります。

「神は不思議な方法で働かれる」という言葉を聞いたことはありますか。隣人愛の実践による成長が、まさに不思議な方法といえます。「クリスチャンの成長は個人的なもの」と考えられがちですが、真理はその逆だと私は思います。隣人愛を実践する人も隣人愛を受ける人も、両方が成長するようになります。隣人愛には、良い相乗効果があるのです。箴言27・17「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」は、まさに隣人愛の関係を持っている人たちに当てはまることばです。「隣人愛を通してお互いが磨かれる関係を築いていく。」これが、神が定めたクリスチャンの成長の原則(他にも成長の原則はありますが)だと私は思います。

隣人愛の実践に、伝道者、牧師、役員、信徒という分け隔てはありません。主キリストを心から慕い求め、主から隣人愛を学ぶ続けることは、すべてのクリスチャンの命題ではないでしょうか。教会の健全な人間関係は、隣人愛の実践によって保たれます。もし教会メンバー一人一人が、神の御心通りに隣人愛を実践していたら、どんな教会になるのでしょうか。教会のほとんどの問題は解決されてしまうのではないかと私は思います。聖書の理解に関して意見の対立がありますか。教会内の人間関係でギクシャクしていますか。主キリストから学び隣人愛を実践してみましょう。聖霊なる神は、私たちが隣人愛を実践しようとする時、私たちの人生に介入して下さり助けてくださいます。

結論

聖書は、「人々の愛が冷える時がくる」と預言しています。クリスチャンも例外ではありません。しかし、私たちが、主キリストに目を向けて主を慕い求めて、主の隣人愛を学び続けていれば、悪魔が私たちの心に入り込む余地はありません。

隣人愛は、一生かけて、人生の終わりまで実践すべき命題です。愛の実践に終わりはありません。クリスチャンは、神の愛を体験して、一生涯、神を愛し、隣人愛を実践するように定められています。この愛の実践は、私たちが霊的に成長する基本だと私は思います。

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