コンテンツへスキップ 投稿日:2022年11月8日/更新日:2023年5月5日

聖書が教える罪悪の概念と道徳観の低下

聖書が教える罪悪の概念と道徳観の低下

中田キリストの教会の前田文夫伝道者の寄稿です。聖書が教える罪悪の概念は、この世の中が考える概念とだいぶ違うようです。今の日本社会の道徳観の低下を象徴する事件が、いろんな所で湧き出るように勃発しています。政治、経済はもちろん、スポーツ、芸能まで、そして日常生活で使う電車の中でも起きています。

聖書が教える罪悪の概念と道徳観の低下

罪について比較的鈍感な時代

今の時代は、罪ということについて、比較的鈍感な時代です。誰にとっても良くないことだと分かっていても、一応理屈をつけて、それは罪ではないと言い訳をします。そして果ては、なぜそれが罪なのかとくってかかる始末です。人は何とでも理屈をつけることが出来るかも知れません。しかしながら、自分の良心はちゃんと分かっています。

 近頃では、罪が我が物顔で通っていて、そういう風に皆が教育されてしまっているかのようです。つまり、自由と放縦がはき違えられています。何をしようと自分の勝手だと思っています。他人に迷惑をかけようが、人を傷つけようが、自分のやりたいことを好き勝手にやる人が増えてきました。バスや電車に乗っても、お年寄りや小さな子供のために席を譲る若者は、ほとんどいなくなりました。また、車で人をはねたりひいたりしても、平気で逃げて行く人が多くなりました。道徳は全く地に落ちてしまったかのようです。

人間の良心と聖書の教え

 しかしながら、私たちの良心は、かなり麻痺しているとは言うものの、やはりまだ何が罪であるかを、ちゃんと知っているのです。ただ他の多くの人々が罪でないと言っているものですから、自分もそうかなあと思っているに過ぎないのです。

けれども罪には、してはならない悪をしてしまうという罪ばかりでなく、しなければならない善をしないという罪があるのです。それは、人が見ているからとか、何か言われやしないかということを気にして、善と知りながらも、行えないのです。いずれも自分の良心が知っている通りに行わないのですから、それは罪であります。聖書はこう言っています。「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ4:17)。

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