神様の祝福の方程式の最後の言葉、「義のために迫害される人々は幸い」を解説。迫害される人はなぜ祝福されるのでしょうか。
義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。マタイ5章10-12節 聖書協会
マタイ5章3-12節、神様の祝福の聖句の構成
神様の祝福の方程式は、「心の貧しい人々は幸い」から始まり、「義のために迫害される人々は幸い」で終わります。階段を上るように、ハードルが一段ずつ高くなっているのでしょうか。実際、私たち人間の目からすると、義のために迫害されることは、一番高いハードルのように思えます。
しかし、マタイ5章3-12節全体の構成でこの聖句を考える必要があります。心の貧しい人々と義のために迫害される人々には、一つの共通点があります。それはどちらも天の国に入れることです。心の貧しい者になるのは、神の御国に入るための出発点であるとすれば、神様の義のために迫害されるのがゴールとも言えます。義のための迫害は、心の貧しい者が遅かれ早かれ通る道です。
心の貧しい人々は、神様の御国と義を求めます。神様の義を求めるがゆえに、この世の基準と相反することをしなければならない場合があります。このように心の貧しいと義のために迫害されるは、紙幣の両面のように表裏一体の関係にあります。心が貧しくなければ、義のために迫害されるようなこともありません。その逆も真なりです。
参考記事
神様の義のために迫害される人々
義とは、もちろん神様の義です。人間が主張する正義ではありません。神様の義のために迫害されるとは、どんな場合に起こり得るのでしょうか。
参照記事 ヨハネ15章18-21節、キリスト者は嫌われる、神の祝福を受ける人生の方程式
御心に適ったクリスチャンは、神様の教えを明確に正しく人々に伝えます。たとえそれが人々の利益を損なうようなことでも、正しく伝えます。悪を悪とハッキリ言ってみましょう。「お前、バカか?」のような顔で見られます。
昔から嘘も方便と言われるように、ケースバイケースで善悪の基準は変わります。このような世の中で生きている限り、クリスチャンが正しい事を言えば、迫害を受けるのは当然です。主イエス様は、次のように言っています。
世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。ヨハネ15章18-20節 聖書協会
御心を行おうとするクリスチャンは、遅かれ早かれ迫害されます。クリスチャンは、誰とでも平和に生きるべきです。そのように生きられるように祈るべきです。しかし、善を善、悪を悪とハッキリ言わなければいけない時がきます。その時には、神様の義のために、意地悪されたりすることもあります。これはクリスチャンの命運とも言えます。しかし、主イエス様は、クリスチャンに祝福を約束されています。
今日も主イエス・キリストを信じて、平安の内に生きましょう。