コンテンツへスキップ 投稿日:2022年6月17日/更新日:2023年5月4日

マタイ5章33-37節。一切誓いを…

マタイ5章33-37節を解説します。主イエス・キリストは「一切誓いをたててはならない」と言っています。なぜこのような事を言ったのでしょうか。使徒パウロはこの戒めを破っています。1世紀のユダヤ教の背景を明らかにすることにより、この聖句の意味をより明快に解説します。

また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。

マタイ5章33-37節 聖書協会

この戒めゆえに、あるアメリカ人クリスチャンたちは、裁判所で証人として立った場合、誓うのを拒否します。30年も前の話ですが、実際に私のアメリカ人の友人たちが言っていました。とは言っても、これが正しい解釈でしょうか。

マタイ5章33-37節の2つの意味

マタイ5章33節-37節から2つの意味を見出してみましょう。第一に「決して誓ってはならない」の意味は何かを考えます。この戒めを文字通り理解すれば、誓うのは神の御心に反する事です。しかしこのように結論づける前に、なぜ主イエス・キリストはこのようなことを言ったのかを考える必要があります。

第二に「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」の戒めをより深く考えてみましょう。この教えは、出エジプト記20章7節「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と関連しています。現代日本人クリスチャンにどのように当てはまるのでしょうか。

誓いについて他の聖書箇所は何と言っているか

5章33節「偽りの誓いをたてるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ」の言葉は、旧約聖書にはありません。これはユダヤ教律法学者たちの旧約聖書解釈から来る言い伝えです。これらの言い伝えは、実質的に律法として考えられていました。

申命記10章20節では、神を畏れ敬い神に誓って日々生きていくように戒められています。またコヘレト5章5節-6節では、軽率な誓いについて警告を与えています。「何を誓うのか」を誓う前に、「よくよく考えなさい」という知恵の言葉です。

一方、新約聖書の方は「誓い」について何と言っているでしょうか。2コリント1章23節でパウロは、「 神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、…」と書いています。もし5章34節の文字通りの理解が正しいとすると、パウロは、主イエス・キリストを戒めを100%破っていたことになります。主イエスの教えをパウロは誤解していたのでしょうか。

改めて主イエス・キリストの真意を理解するために、1世紀のユダヤ教の背景を見る必要があります。

1世紀のユダヤ教の背景

古代ユダヤ教のミシュナという文献には、律法の解釈が事細かに書かれています。「誓いをたてる」ことも例外ではありません。どのような場合に誓いが有効であるか、無効であるかを取り決めしていました。自分たちの都合のよい方法で、宗教的な正式の誓いとカジュアルな軽い誓いとにより分けていたのです。マタイ23章16-22節

誓いとは何にかけて誓っても、結局のところ神の御名によって誓っていると主イエスは教えています。それなのにユダヤ教律法学者たちは、自分勝手に誓いをより分けていたのです。この背景で主イエス・キリストは一切誓いをたててはならないと戒めたのです。

「パリサイ人や律法学者が行っている誓いは、誓いでも何でもない。いっそのこと、やめてしまいなさい。むしろあなた方は、自分の言葉に責任をもち、「YESはYES]、「NOはNO」としなさい。それ以上は悪魔のわざです」と戒めたのです。

誓いと約束に違いはあるのでしょうか。「はい」は「はい」の原則から言えば、違いなど微塵もありません。確かにクリスチャンの中にも、自分の都合で平然と約束を破る人がいるかもしれません。「はい」と約束したらそれを守る正直さ、誠実さがクリスチャンには求められています。

主の御名によって軽率に誓う罪と主の御名をみだりに使う罪

「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」の原則は、「主の御名によって・・・する」ことに深く関連しています。つまり主の御名によって何かをする時、私たちは主に対して「はい」と言っているのです。その様に言いながら、人間に対して「いいえ」とは言えません。そこには当然、すべてを見ている主に対して、「はい」は「はい」の原則で申し開きする義務が生じているのです。

主の名をみだりに使う罪

軽率に誓いを立てることが禁じられているように、神の御名をみだりに使ってはならないと戒められています。アメリカ人たちは、カジュアルな場面で軽く“Oh, my God”と言ったりしますが、このような言動を神は忌み嫌います。このような表現は日本語にはありませんが、日本人クリスチャンが軽い気持ちで神の御名を使うことはないでしょうか。

説教者は「今回の説教では、この聖句が与えられました」とよく言ったりします。あるいは「~に導かれました」と言うかもしれません。このような表現が、非常にカジュアルな軽い意味で使われていることがあります。本当に信じているのでしょうか。神の名を使うとき、私たちは神の権威によって言動しているのを忘れてはならないでしょう。もし真剣な信仰がなければ、神を冒涜していることになるのです。

主の名によって誓う、主の名によって語る 

主の名によって誓うときも語るときも、主なる神の権威が反映しています。主の名によって誓うとき、「主なる神が証人として」立っておられます。主の名によって語るときは、「主なる神の代弁者として」語っているのです。ですから主の名によって何かをするときは、常に「YESはYES、NOはNO」の本気モードでなければなりません。逆に、主の名をみだらに使う、または主の名によって軽率に誓う行為は、主の名を汚していることになるのです。信仰による行いではありません。

原点回帰をしましょう。自分の心、自分の信仰、自分の行いをチェックしてみましょう。主イエス様が教えるような者に造り変えられているでしょうか。

「YESはYES、NOはNO」の原則で、主の御名によって今日も生きられますように。クリスチャンは、主の名によって生きると決めた人です。主の名によって生きると主イエス様に約束したした人です。主イエス様への誓いでもあります。この解説を通して読者の皆様が、主イエス様の戒めを理解できたと思って下されば幸いです。口コミもお願いします。

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