コンテンツへスキップ 投稿日:2022年9月3日/更新日:2023年5月4日

マタイ6章10節。御心が行われるように

悪魔が支配しているこの世の中だからこそ、クリスチャンはこの世で神様の御心が行われるように祈る必要がある。私たちは人間に過ぎない罪人である。その罪人である私たちは、神様に委ねて御心が行われるようにと祈りなさいと求められている。主イエス様でさえ祈ったこの祈りの意味は何かを探ってみよう。

主イエス様も祈った 「わたしの願いではなく、御心のままに」

御心が行われるように

主イエス様は、十字架にかけられる前に3度「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。わたしの願いではなく、御心のままに」と祈った。主イエス様に対する神の御心は、人間の罪のいけにえとして十字架に行くことであった。主イエス様でさえ祈ったこの祈りに、主の祈りの「御心が行われますように」の意味が示されている。

私たちにとって御心とは?

御心が行われるように

神の御心は、神への愛と隣人愛の2つの戒めに総括される。これは極めて個人的な祈りともいえる。主イエス様の関係において御心が行われ、また隣人関係においても御心が行われるように祈るのである。

この祈りには、神学的なハッキリとした理由がある。この世は、常に悪魔によって支配され悪に満たされている社会といえる。この世は、何が主に喜ばれるのかを吟味しなければならない時代なのである(エペソ5・10-16)。しかしクリスチャンは、悪魔の策略に免疫があるわけではない。クリスチャンも、罪人ゆえに簡単に悪魔にだまされ罪を犯してしまう。その罪は、主イエス様との関係だけでなく、人間関係にも悪影響を及ぼす。御心が行われるように祈るとき、クリスチャンは自分の罪を認識して神に委ねるである。

わたしの考え、願い、正義 vs 神の御心か?

主イエス様は「わたしの願いではなく、御心が行われますように」 と祈った。自分自身の人生を振り返ってみて、
どれだけ自分の考え、願い、正義を押し通してきたかを考えてみよう。自分の考えによって、どれほどの罪を犯し続けてきたかを思い出してみよう。

ここで原点に戻って、御心に基づいた関係について考えてみよう。日々の生活を「御心が行われますように」という観点から考えてみる必要がある。

御心が行われるように祈るために、悔い改め

御心が行われるように祈る人は、自分の心を神様にさらけだす。自分自身には知恵がない、自分自身の考えが愚かなことを告白する。自分の考え中心の祈りから、御心中心の祈りへと移っていく。主イエス様のように、父なる神様の御心の前にひれ伏して、祈ってみよう。天のおとうさまは、このような祈りに必ず応えて下さるからだ。

この世では主イエス様の名によって、様々なことが行われる。その中で本当に神様の貴い御用のために器になりなさいと使徒パウロは戒めている(2テモテ2・20-21)。

神様のお役にたつ器になるのに、年齢は関係ない。クリスチャン歴が長いか、短いかも関係ない。誰でも、貴い御用のために用いられる器になれるのである。そのためには、神の御心が行われるように、日々祈る必要がある。日々の生活を、「御心が行われるように」という観点から考えてみませんか。そして実際に日々祈ってみましょう。

祈りについて

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