コンテンツへスキップ 投稿日:2022年9月25日/更新日:2025年1月29日

神が罪を赦す原則

罪の赦しを祈る男性

神が罪を赦す原則について考えてみる。たとえば、神は、人の罪を赦さない人を赦すことはできない。憐れみ深い神様が、敢えてこのような人の罪は赦されないと明言しているのだ。この原則は、私たちが「私たちの負い目を赦して下さい」と祈るときに当てはまる。自分の罪深さを知らずして、この祈りは祈ることはできない。他の人の罪を赦さずに、祈ることもできない。

信仰をもつクリスチャンは、主イエス・キリストの十字架によって、罪が赦されていると聖書は教えている。では、この主の祈りの祈りは、クリスチャンにとって無効なのだろうか。この祈りは必要ではないのだろうか。いやそんなことはない。主の祈りは、今でもクリスチャンにとって、大切な祈りだ。私たちは、自分の罪を認識して、主イエス様の名によって罪を赦して下さいと祈るのだ。主イエス・キリストの十字架とこの主の祈りの関係について、いっしょに考えてみよう。

クリスチャンは、罪に定められることはない 

キイリスト者は、もはや罪に定められることはない。この同じ言葉を、主イエス様は姦淫で捕まった女性に言った(ヨハネ8章10節-11節)。

主イエス様は、罪人であるこの女性を赦した。「あなたを罪に定めない」という神様の宣言だ。ただし、罪を犯してはならないと警告している。ここに私たち人間の罪の現実がある。

憐れみ深い神様は、私たちを罪に定めることはしない。罪人である私たちを、義人として受け入れて下さった。主イエス様の十字架が私たちの罪を清めて下さっているからだ。

しかし、だからといって、自分にはないと言ったらどうなるのだろうか。それは思い違いだ。そんなことを言ったら、神様を偽り者にしてしまう。神様の真理は、私たちに息づいていないことになる。むしろ、自分の身勝手な考えや神様の御心に反した行いを告白してみよう。憐れみ深い神様は、私たちの悔い改めの信仰を喜び、私たちの罪を赦して下さると約束している。

人間である私たちの罪の現実

使徒パウロは、ローマの手紙の中で、何度も違った切り口で、違った言い方で、2つの真理を書いている。1番目は、私たちは罪人であること、2番目は、私たちの罪が赦されていること。この2つの真理は、矛盾するものではなく、お互いに補い合っている。

すべての人間は、たとえ神の民であったユダヤ人であっても、どんな宗教的に高い地位にある人であってにも神から離れた存在である。私たちに神様の恵みを受ける資格などないほど、私たちは罪深い。しかし、憐れみ深い神様は、私たちの信仰を通して、私たちを正しい者として受け入れて下さった。

汚いゴミを拾ってきて、神様が洗ってくださったのだ。このゴミはいくら洗っても、また汚くなってしまう。私たちの人生は、私たちが身につけている服に似ている。生きている間には、辛いことがあったりして傷がつく。ホコリやゴミがくっついてくる。そのたびに、私たちは、神様にお願いする。「私たちのゴミ、罪を取り除いて下さい」と祈る。主の祈りに教えられているように、赦して下さいと祈るのだ。

人間は自分では正しいことを知っているけど、その正しいことができない。むしろ、自分がしてはいけないことをしまうことがあると言っている。まさに、私たち人間の性質、人間の性がある。聖書が言っている肉とは何だろうか。これは人間の肉体的存在、罪人としての存在を指している。私たちの内に罪が住み着いているのだ。クリスチャンの心は、信仰によって主イエス様に向っているが、実際は罪を犯してしまうことがあると言っている。

こんな惨めな人間である私たちが行くべきところはどこなのか。主イエス様しかいない。この方を信頼していくしかない。その信仰によって、神様は私たちを罪に定めず、義なる人間として認めて下さっている。信仰によって神様に仕えようとしているが、私たちの肉体が罪を行ってしまう。クリスチャンには霊的な戦いがある。

敬虔なクリスチャンは、肉と霊が対立していることを知っている。このようなクリスチャンは、霊に導かれ正しい道を歩もうとするが、それでも間違いを犯す。罪を継続的に自らの意志で犯している人は、神の御国を受け継ぐことができないかもしれないと、パウロはクリスチャンに警告している。

結論 負い目を赦して下さい 

霊的な戦いは、確かにある。この戦いを知らないクリスチャンはいない。主イエス様も霊的な戦いを戦った。悪魔に誘惑された。悪魔に従うように、誘惑された。主イエス様は、この戦いに勝った。だから次のように言っている。

私たちは、主イエス様の励ましによって、勇気をもって霊的な戦いに立ち向かうことができる。しかし、私たちがどんなに頑張っても躓くことがある。使徒ペテロも躓いた。主イエス様を絶対否定しないと決心したが、最終的に主イエス様を裏切った。このように私たちは、罪を犯してしまう愚かな人間なのだ。

だからこそ、主の祈りの「私たちの負い目を赦して下さい」が必要なのだ。私たちの霊的な成長は、罪が赦され、他の人の罪を赦し、また罪が赦され、他の人の罪を赦すという循環で成される。どうか私たち一人一人が、神様の器になれますように。私たちが聖霊によって導かれ、正しい道を歩めますように祈ろう。

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