誘惑にあわせず悪い者から救って

マタイ6章13節 「誘惑にあわせず、悪い者から救ってください」の意味を解説。神様は私たちを誘惑にあわせるのでしょうか。悪い者とは誰でしょうか。

これは主の祈りの最後の祈り。これは霊的な戦いを意味する祈りです。自分の罪深さを自覚していない人には、この祈りはできません。クリスチャンは罪は赦されていても、罪に対して免疫はないのです。

神の御国が来るように祈れる人は、同様に、神の御心が行われるように祈ります。そして自分の罪が赦されるように祈るでしょう。「誘惑にあわせず、悪い者から救ってください」は、祈りの結論です。つまり、自分が神様の支配にいること、自分の罪が赦されていることを知り、信仰の人は、それでも最後に「私たちを誘惑にあわせず、悪い者から救ってください」と祈るのです。では、この意味について考えてみましょう。

「誘惑にあわせずに」の意味は?

「誘惑にあわせずに」と祈るからには、あたかも神様が私たちを誘惑にあわせることがあるようにも聞こえますが、しかし、真実は違います。ヤコブ1章12-15節を読んでみよう。

神様が私たちを誘惑することなどありません。決してありません。マタイ6章13節、この聖句の誤解は、前半部分と後半部分を切り離して考えるから起きてしまいます。この祈りは、文脈で読まなければなりません。では改めて、この祈りを全体を通して考えてみましょう。

この文を文法的に分けると、主節が「悪い者からすくってください」、従節「誘惑にあわせず」になります。つまり、「悪い者から救ってください」の意味がわかれば、おのずと「誘惑にあわせずに」の意味が解き明かされる訳です。

悪い者とは、サタン、悪魔を指している

この祈りは、その悪魔から救ってくださいと祈っています。悪魔とは、人間を苦しめる、惑わす、騙す霊的な存在です。目に見えない悪の力です。悪魔であるサタンは、誰かを食い尽くそうと探し回っています。だから注意深く、霊的に目を覚ましている必要があります。

主イエス様もこの悪魔に誘惑されました。またこの悪い者とは、悪魔によって騙され悪魔に操られている人たちも含まれているのです。2コリント11章13節―15節を読んでみよう。

悪魔に仕える人は、善と悪をミックスさせ人を惑わします。これは私たちが罪を犯してしまうのとは違います。なぜなら、私たちは、それを罪だと認識しているからです。ところが、悪魔に仕える人は、悪を善のように取り繕って、あたかも善を行っているかのように装うのです。だからこのような人は怖い!主イエス様が言う「羊の毛皮をかぶった狼」なのです。

このような人たちは、もちろんクリスチャンではない人にいるし、クリスチャンと言っている人たちの中にもいるでしょう。実際、パウロとコリントの教会の人たちは、羊の皮をかぶった狼、自称クリスチャンの偽教師たちと戦っていました。21世紀に生きる私たちも、1世紀のクリスチャンと何ら変わりはありません。

実に怖いのは、この偽教師たちは、自分が偽教師であるという自覚がまったくないことです。自分が羊の皮をかぶった狼であるという自覚がまったくありません。すべて善意で行っているのです。そこもまた悪魔の策略のポイントではないでしょうか。悪魔は、善を「悪を行うため」に使うのです。人間の善を悪に変えてしまいます。

私たちは、このような悪魔の策略に対して、多くの場合、防衛の力と知恵を持ち合わせていません。だから簡単に騙されてしまい、惑わされてしまいます。

「悪魔または悪魔に仕える人から、私たちを守ってください、救ってください」と私たちが祈るのは、至極当然のことであり、私たちの義務でもあり特権でもあるのです。

この世には霊的な戦いがある

誘惑にあわせず、悪い者から救ってください

天のおとうさまである神様を信じるのであれば、当然、この世で悪を行っている悪魔の存在を信じるべきでしょう。どちらも私たちの目で見ることはできません。しかし、神様の力と悪魔の力を感じることはできます。エペソ6章10節-18節を読んでみよう。

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。(エペソ6・10-11)

 先ほども書きましたが、この世には悪魔に仕えている人たちがいます。羊の皮をかぶった狼です。しかし、敵はその狼ではありません。敵は血肉の人間ではなく、この世の支配者であり暗闇の支配者である悪の霊であるサタンである、と使徒パウロは明言しています。

実際、悪魔に仕えている人は、四方八方にいるかもしれません。しかし、私たちには、それを見破る霊的な目が欠けているのです。多くの場合、ハッキリ、これが悪魔のわざであるとハッキリ言えません。だから、私たちは神様の守りを必要としているのです。神様に祈る必要があるのです。

エペソ6章は、1世紀のローマ帝国の兵隊のイメージを用いて、霊的な戦いを説明しています。この霊的な戦いに処理するために、真理を帯として、信仰をもち、救いの兜をかぶって、主イエス様の名によって祈るのです。「悪い者から守ってください、救ってください」と神様にお願いするのです。

神様の支配

私たちは、神の御国がこの地に宿るように祈ります。神の御心が天で行われるように、この地でも行われるように祈ります。神様は、御心によって私たちを苦しめたりせず、むしろ、私たちに祝福を与えてくださるのです。この祈りには、天のおとうさまである神様が、すべてを支配していることを信じている信仰の裏付けがあります。

詩篇17篇6節-13節を読んでみましょう。これが典型的な「わたしを誘惑にあわせず悪い者から守ってください」という祈りです。御心を行ってくださいという祈祷です。

私たちも、詩篇17篇のような祈りをささげたことがあるかもしれません。実際に、このような祈りをささげることにより、私たちは、一段高い所へと霊的に成長していくのではないでしょうか。主イエス様に一歩近づいていくのです。

主イエス様は、十字架にかけられる前、祈っておられました。ゲッセマネの祈りと言われます。この祈りの時に、弟子たちに次のように言いました。

「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。」マタイ26章41節

私たちの信仰は強く燃えていても、私たちの肉体は罪ゆえに弱いのです。罪が、私たちの内に住んでいるからです。だから、私たちは誘惑に陥らぬように、霊的に目を覚ましている必要があるのです。

結論 誘惑にあわせないでください

誘惑は試練の時でもあります。そのような試練に直面したとき、パウロの言葉を思い出してみましょう。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。1コリント10章13節

試練や誘惑は、クリスチャンであれば、誰もが通る道です。それに勝利するために、私たちは日々神様に祈らなければなりません。信仰にかたく立って、霊的に目を覚まして、日々祈ってみましょう。主の祈りを、日々読み霊的な祈りができますように。

 

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