マタイ6章19節-24節では、私たちは天に宝を積むように戒められている。マタイ6章25節-34節では同じ文脈で主イエス様は、天に宝を積むために何をすべきかを、具体的に教えている。
この聖句から私たちは何を学べるのか。神の国と神の義を求めるとはどんな意味なのか。
衣食住について思い悩むのはやめなさい
「神と富とに仕えることはできない」のだから、思い悩むのはやめなさいと教えられている。何を着るか、何を食べるか、住む場所、つまり衣食住は、私たちの生活の基盤だ。それらについて、思い煩う必要はないと言われている。なぜだろうか。働くなくても良いという意味だろうか。何も考えないで生きていけという意味だろうか。
動植物の役割と人間の役割
創造主なる神様は、日々、動植物の命を支えている。「空の鳥を見なさい」、「野の花を見なさい」どのように動植物が生きているのか、よく考えてみなさいと言われている。
人間の目線から、主イエス様は、神様に信頼しても大丈夫だよと、理論的に教えてくれている。人間は、神様にとって動植物以上の存在だからだ。神様は、私たち人間を神様に似せた者として創造してくださった特別な存在だ。動植物とは区別して創造されて、神様に愛されている存在なのだ。
動植物は、動植物が与えられた役割を果たしている。自然の中で生きることだ。これが彼らの仕事だ。では私たちの役割は、何だろうか。この世で、神様の栄光を現すように生きること、これが私たち人間に与えられた使命だ。
仕事も何もしなくても良いという意味ではない。むしろ、永遠の命に至る食べ物のために働いているのだ。主イエス様に従って生きていくこと、これが人間の使命なのだ。
私たちの思い悩み、思い煩い、心配
なぜ主イエス様は、私たちに思い煩うのはやめなさいと言っているのか。それは、私たちが、何につけ多くのことに思い煩うのを知っているからだ。実際、私たちは衣食住の他にいろんなことについて、思い悩む。
衣食住に関する悩みは、いろいろ枝分かれして、私たちはいろんなことに思い悩む。ある人は、将来、地震が起きるのではないかと恐れたりする。病気にならないか、事故に遭うかもしれないと思って、恐怖心をもつ人たちもいる。
あるいは、他人が自分をどのように思っているのかで、思い煩う人もいる。人間関係の悩みは絶えることがないだろう。これらのことを思い煩って、夜もあまりよく眠れない人たちもいる。いつも何か暗い顔をしている人たちがいる。しかし、どれもこれも、そられの思い煩いは必要ないと主イエス様はいっている。
あ~信仰の弱い者たちよ
そんな私たちに「あ~信仰の弱い者たちよ」と憐れみの言葉をかけてくださっている。これは神様の愛の言葉だ。主イエス様は、私たちがどれ程、弱い者であるかを知っている。だから優しく招いてい下さっているのだ。「わたしを信じて信頼しなさい」と常に、毎日のように、私たちの心に言っている。
主イエス様を信頼して神様の愛に委ねてみよう。余計なことに思い煩うのはやめよう。主イエス様が言うように、思い煩ったからと言って、命をのばすことはできない。
この世の中には、思い煩ってもどうにも変えることはできないことがある。地震はいつ起きるかわからないけど、いつか起きる時がくる。思い煩ったからと言って、地震が起きなくなるのだろうか。そんなことはない。
私たちは、みんな年をとり体が弱い病気になる。病気にならないように健康維持を心がけることはできるが、それでもいずれ病気になる。また、他人がどのように自分について思っているかも、私たちは変えることはできない。
あるクリスチャンの祈り ニーバーの祈り
ここであるクリスチャンの祈りを聞いてみよう。
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。
ニーバーの祈り
この祈りのように、私たちは、変えることのできないものを受け入れる信仰をもつ必要がある。また変えられないものと変えるべきものを見極める知恵を、神様から受ける必要がある。そして、変えるべきものを変える勇気も、私たちは必要としている。
このような信仰をもって、さらに主イエス様の大切な約束を聞いてみよう。
それは、「神は私たちが必要なものを与えてくださる」ということだ。主イエス様の言葉を信じて生きる人には、神様の祝福が与えられる。この世に宝を積まないで天に宝を積む人は、次のように祈るだろう。
箴言30章7節-9節を読んでみよう。
2つのことをあなたにお願いします。…むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず金持ちにもせず、わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば裏切り、主など何者かと言う恐れがあります。貧しければ盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません。
箴言30章7節-9節
この聖句の祈りのように、クリスチャンは大金持ちになることが約束されている訳ではない。むしろその逆だ。私たちが必要な分を丁度よく与えてくださるのだ。貧しすぎることもない。またお金が溢れるほどもない。主イエス様は、この約束を必ず御守りになる。
神の御国と神の義を求めなさい
だから、まず第一に、私たちは、神の国と神の義を求めなさいと教えられている。ではこの意味は何だろうか。これは、神様中心の生き方である。つまり私たちの神様である主イエス様中心の生き方を指している。
主イエス様の御国の中で生きているとは、主イエス様の支配に従う事だ。主イエス様の教えが一番になる。主イエス様の教えが、わたしたちの行動の基準になる。人生の優先順位が、主イエス様の教えによって決められていく。
だから、私たちは、主イエス様の義、つまり教えと御心を求めなければならない。しかし、これは個人の自由だ。キリスト教は決してカルト宗教ではない。私たち一人一人が、主イエス様に従うかどうかを決めるのだ。自分の考えを捨てて、主イエス様の教えが一番になっていくような生き方、それが神の御国と義を求める生き方だ。
祈りの続きを聞いてみよう。
一日一日を生き、この時をつねに喜びをもって受け入れ、困難は平穏への道として受け入れさせてください。これまでの私の考え方を捨て、イエス・キリストがされたように、この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。アーメン
この祈りのように、些細なことに思い煩うのはやめて、一日、一日を生きていこう。神様が、私たちに日々与える小さな祝福は、大きな祝福へと変えられていくのだから、日々、元気に生きていこう。
結論 主イエス様を見上げて
日本の茶道の言葉に一期一会(いちごいちえ)という言葉がある。その意味は、一生に一度の出会いであり二度とないという意味。だから、その時を真剣に誠意をもって取り組むべきだと戒めだ。
主イエスは、この戒めを一歩超えている。創造主なる神様は、私たちを見守っている。その一日一日を一歩一歩進んでいく。神様が与えて下さっている時間だから、私たちは大切に日々を生きていく。
明日は明日の風が吹くだろう。明日のことは、明日が思い悩む。私たちが思い悩んでも仕方ない。今日の苦労は、今日果たすべき苦労だ。その日が終わったら、主イエス様に感謝しよう。
だから、今日という日を、主イエス様に委ねて、精一杯生きていく。これが祝福の人生を生きていく秘訣だ。
そのために主イエス様が教えているように、日々、主イエス様を見上げ信じて、信頼して生きていく必要がある。この祈りにあるように、自分の考えを捨てて、この罪深い世の中で生きている事実を受け入れるのだ。罪深い世の中だから、この世には不幸がある。それも受け入れるのだ。ただ一心に、神様の御心を求めて生きていこう。
主イエス様は、いつか再臨される。その日を待ち望んで日々、主イエス様を見上げて生きていこう。主イエス様は天にいても、いつも私たちの近くにおられ、私たちを見守っているのだから。