コンテンツへスキップ 投稿日:2022年11月14日/更新日:2023年5月4日

マタイ7章13-14節。狭い門から入れ

狭い門から入れ

主キリストは、広い門からではなく狭い門から入れと教えています。大学受験の「狭き門」という表現あるりますが、主イエスが教える狭い門は、成績優秀な人だけが入れるという意味ではありません。主キリストの軛は負いやすいのです。難しい道ではありません。では主キリストが教える狭い門、救いに至る道はどんなものでしょうか。

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。

マタイ7章13-14節 聖書協会

2つの道があると認識

狭い門か入れ

人生には多くの道が存在して、私たちはどのような生き方をするかを選びます。しかし、主イエスによれば、人生には大きく分けて2つの道しかありません。救いの道と滅びの道です。どちらの道に行くのかは、私たち自身が決めるのです。救いの道は、主イエス・キリストにつながる唯一の道です。滅びの道は、四方八方に枝分かれして数千の道があるかもしれません。

しかし、山上の説教で説かれている狭い門の意味は、山上の説教の文脈で読まれるべきです。主キリストは、人間の罪深さと偽善的な罪を、山上の説教で解き明かしています。狭い道と広い道の対比は、単にキリストを信じる人と信じない人の対比ではないのです。善と悪の対比ではありません。狭い門の意味は、マタイ7章24-27節に簡潔に説明されています。

狭い道と広い道の対比は、主イエス・キリストの御言葉を聞いて実践する人と聞いても実践しない人の対比なのです。

主キリストの言葉を聞いて

主キリストの言葉を聞く人の中には、2種類の人たちがいます。1.言葉を聞くだけで終わってしまう愚かな人、2.主の御言葉を聞いてその教えを実践する賢い人。ではそれぞれのタイプの人について考えてみましょう。

主キリストの教えを聞いてクリスチャンになっても、御言葉を実践せずに生きている人がなんと多いことでしょうか。この人たちは、入りやすい簡単そうな道に見える広い門から入ります。みんなが行くから、自分も行ってみようと考えますが、最終的に導かれるのは滅びの道です。

狭い門から入る人は、自分ではどうすることも出来ない自分の罪深さを自覚します。自分の罪の問題から逃げたりしません。むしろ自分の罪を直視して、問題解決を主キリストに委ねます。

実際、朝起きた時から主への感謝で一日が始まります。そして、夜には主への感謝の祈りで終わります。このような人は人生の優先順位が違います。まず第一に、神の御国と義を求めて生きます。

決して難しい道ではない

狭い門から入る道を「難しくて厳しい道」と解釈する人がいますが、それは大きな誤解です。

主イエス・キリストの軛は、私たち人間にとって負いやすいのです。ピッタリはまる軛です。重くて疲れてしまうような重荷を、主イエス・キリストは私たちに与えません。

もし私たちがクリスチャンとして生きるのは大変と感じるのであれば、それは自分自身に原因があるのではないでしょうか。難しくしているのは自分自身なのです。

「心を騒がせるな。わたしを信じなさい。人生について思い悩むのはやめなさい。それよりもまず第一に、神の御国と義を求めなさい。そうすれば、あなたが必要としている物は、すべて与えられるのだから」と教えられています。この戒めと100%反対に生きたら、どんなに人生になるでしょうか。悩みが尽きない苦しみの人生です。

クリスチャン人生は、霊的な戦い 

しかし、同時にクリスチャン人生は、霊的な戦いでもあります。自分の罪の心が、主キリストへの信仰に勝ってしまう時がないでしょうか。善をしようと思う心は持っていても、それを実践しようとする十分は信仰をもっていないのです。むしろ善ではなく悪を行ってしまうのです。これは、人間の弱さがなせる業です。見事にサタンによって誘惑され、惑わされているのです。使徒パウロは、この霊的な戦いをローマ7章で説明しています。自分の罪深さを感じる人は、次のように主に助けを求めるでしょう。

また使徒パウロは、この世では霊的な戦いが存在すると明言しています(エペソ6章10-17節)。私たちが選ぶべき狭い門から入る道には、確かに霊的な戦いがあります。私たちが、主イエス・キリストに従順についていく所には、平安が宿っています。喜びと希望と愛に溢れています。前を向き前進していく道です。霊的に成長していく道です。主イエス・キリストがこの世に勝利したように、私たちも勝利できると約束されています。だから、勇気をもって信仰によって、この狭き道を歩んでいきましょう。

「狭い門から入れ」と決断が求められている

「狭い門から入りなさい」と、主イエス・キリストは私たちに命令しています。この言葉を聞いた人は、決断が求められています。もちろん、決めるのは自分自身です。他の誰かが、アドバイスはできても、あなたのために決める訳にはいきません。あなた自身が選ぶのです。しかも、選べる道は、二つに一つしかありません。狭い門から入るか、広い門から入るかです。

クリスチャンになりましたが、この決断を躊躇して苦しんで生きている人がいます。悲しい現実です。主の祝福が、すぐそこに待っているのに、狭い門の前でずっと立っているのです。それも何十年も待っているではありませんか。これこそ、人生の無駄遣いです。

私たちは、よく「神様、私を導いてください」と祈ったりします。「導いてください」と祈りつつ、踏ん張って動かなかったどうでしょうか。そのような人を、神様は導くことはできるでしょうか。

今も主イエス・キリストは、私たちを招いて下さっています。この招きに応えるためには、素直な信仰が必要です。手放しで、天の御父様に飛び込んでいく信仰をもちましょう。主イエス・キリストに委ねて、狭い門から入ってみましょう。

「マタイ7章13-14節。狭い門から入れ」への2件のフィードバック

  1. 日々の生活の中で神に従い実践することを選び取る度に、ますます力を与えられ平安があります。今日も狭き門から主に従えますように。

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