この地上で主キリストに出会えた人々は、極めつけの祝福を受けました。(何の世界でも、スーパースターに実際に会える人は、極わずかです。)この地上で主キリストに出会えない私たちは、少ない祝福をいただいているのでしょうか。
過越祭の六日前に、…そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」ヨハネ12章1-8節 聖書協会
マリアがキリストの足を高価な香油で清める
神様の祝福の象徴として、サムエルは、ダビデの頭に油を注ぎました(1サムエル記16章)。これと似たような事がユダヤ教でも行われていました。上記の聖句では、マリアは主キリストの足を香油で清めていますが、マタイ26章とマルコ14章では頭に香油をかけています。この3つの福音書から、マリアは主キリストの頭にも足にも香油を注いでいたのがわかります。
主キリストは、マリアの行いを「ご自身が葬られる準備をした」と言っています。しかし、マリア自身はそんなつもりはなかったでしょう。マリアは、主キリストが十字架にかけられるとは予想もしていなかったからです。マリアは、単に聖霊の導きのままに、主キリストに清めの儀式を行ったのです。
マリアのこの行為を見ていたユダは、主キリストを褒めたたえるよりも、目先のことしか見ていませんでした。彼は自らの浅はかさを明るみにして、「香油を売って貧しい人々に施さないのか」と言ったのです。別段、彼が貧しい人たちに憐れみを持っていたわけではありません。単に自己顕示欲でこのようなことを主張したのです。
参考記事
「わたしはいつも一緒にいる訳ではない」の真意
ユダの言葉を聞いた主キリストは、「わたしはいつも一緒にいる訳ではない」といいます。この意味は何でしょうか。マタイ28章18-20節には、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と言っています。この2つの聖句の違いは何でしょうか。
マタイ28章の言葉は、復活後の主キリストの霊的な臨在を示しています。一方、ヨハネ12章の聖句は、主キリストの地上での時間を指しています。
主キリストの地上でのミッションは、約3年間と限られていました。実際に主イエス・キリストと対面で話が出来る時間は、十字架刑が迫っていたので限られていました。その比較として、「貧しい人々はいつの時代でもこの世にはいる」と主キリストは説明しているのです。実際、十字架の死の3日目に、主キリストは死からよみがえり、天に昇られました。
地上でキリストに出会った人々と出会わなかった人々の恵み
1世紀のユダヤで主キリストに出会った人々は、極めつけの祝福を受けたと思われます。しかし、今現在、主キリストに対面した方は生きていません。誰も主キリストの顔も見たこともないし、声も聴いたこともありません。だからといって、私たちは少ない祝福を受けているのでしょうか。そんなことはありません。
あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。1ペテロ1章8-9節 聖書協会
神様は霊なる方です。私たちの目で見ることはできませんが、霊なる神様は、私たちと共にいます。見守っています。クリスチャンの内に聖霊として臨在しておられるのです。目に見えない不思議な力で、私たちを励まし強めて下さってます。主イエス様は、21世紀に生きる私たちにも、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語っているのです。主イエス様に感謝しましょう。
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アーメン。主イエスがいつも私たちと共にいてくださる恵みに感謝します。この世で1番の励ましです。
同感です。アーメンです。主はいつもそばにいます。だから安心です。