コンテンツへスキップ 投稿日:2022年1月5日/更新日:2023年5月5日

自分は善人だと思うの根拠は?

自分は善人、それとも悪人と思っているでしょうか。多くの方々は、「どちらかといえば自分は善人だと思う」と答えるかもしれません。この一般的な認識について、聖書をもとに結論を導き出してみましょう。

渋沢栄一氏は、次のように言っています。「人生の行路は様々で、時に善人が悪人に敗けたごとく見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである。悪いことの習慣を多く持つものは悪人となり、良いことの習慣を多くつけている人は善人となる。」

良い習慣を身につけて、人は善人になれるのであれば、日本には多くの善人がいるのではないでしょうか。このような理由で、ある人たちは「自分は基本的に善人」と思っているのかもしれません。ほとんどの日本人は、「自分は欠点ばかりの人間だが、少なくとも悪人ではない」と認識しているのではないでしょうか。つまり、悪人ではないから、「どちらかというと自分は善人である」と思っているのです。

魔法のランプがあったら…

暴力団の人たちでさえ、仁義に外れたことは悪だと考えます。彼らの中にも、善と悪が存在します。彼らも人の子、人の親です。彼らの半分くらいは、善人を自称するかもしれません。さらに「悪いのはこの社会だ!政治だ!俺らは何も悪いことなどしてない」と本気で言うでしょう。「自分は正しい。他人は間違っている」という自己中心的な考えは、少なからず誰もがもっています。この考え方に、人間の罪の大元の根っ子があるのです。

魔法のランプ

何でもかなえられる魔法のランプがあったら、使わない人はいないでしょう。 悪いことをしても、絶対に人に知られません。銀行に行ってすべてのお金を盗んでも、警察にも絶対にバレることはありません。透明人間のように現金を拝借していききます。あなたの手に入らないものはありません。夢みたいな話です。

嫌な人がいたら、この世から消えてもらうことが出来ます。殺人のような残酷なものではなく、そっと消えてもらうのです。お互いに消しっこゲームをします。どちらが先に消えてもらうか、恐ろしい人生ゲームです。しかし、こんな魔法のランプが実際にあったら、世界人口は半分以下、いや最終的には誰もいなくなってしまうでしょう。それくらい、人間が自己中心的であるという証明でもあります。

しかし、なぜ日本人には、聖書が教える罪の意識がないのでしょうか。悪いことをしてバレたら「恥ずかしい」と思っても、罪悪感は生まれません。世の中で行われている悪は、自分には無関係であると考える根拠は何でしょうか。根拠は、「自分は善人ではないが、悪人ではない」の考え方にあります。言い換えれば、「善を行わないが、悪も行わない」となります。しかし、人間が悪を行わないなんて可能なのでしょうか。

この世に善人、正しい人はいない

一方、聖書は「この世に善人は一人もいない。正しい人は一人もいない」と明言していまうす。すべての人が、悪を行い罪を犯したと書かれています。その根拠は何でしょうか。われわれ人間は、善の心をもっていても、何が善であるかを知っていても、その善を実践しない方が圧倒的に多いのではないでしょうか。見て見ぬふりして、意識的に忘れようとします。面倒だと思ってしまいます。善を知っていっても、知らんぷりすること自体が、もうすでに悪業であり罪なのです。

正直なところ、人が見ていなければ、または警察にバレなければ、平然と悪を行ってしまうことだってあります。ある歩道には信号機があるが、10mにも満たないような道路に信号機がついています。早朝には交通量はほとんどありません。急いでいるときは、思わず渡ってしまいます。もちろん、お巡りさんがいる前では、さすがにできません。目の前に子供がきちんと赤信号で待っている前でも、そのような交通違反はできません。こんなダブル・スタンダードが、わたしの心には宿っています。

心で犯す悪、人間の闇の部分

人は、行動で悪を犯さないようにしますが、本当の悪は心の中にあるのです。人は、他の人にネガティブな感情をもちます。表面上の行動に現れない心に秘めた悪い感情があります。たとえば憎しみ、怒り、蔑み、嫉妬心、無慈悲などです。すべてが悪といえます。人は、同時におごり高ぶります。態度には見せないかもしれませんが、「自分が正しい。他の人は間違っている」と思っているのです。

自分に対して敵意をもっているような人が、何らかの不幸に見舞われたら、内心ニヤニヤして喜ぶようなことはないでしょうか。こんな闇の部分が、わたしたち人間にはあります。

罪とは、国家の法律に反する行為だけではありません。人の罪は、何かをやるやらないといった行動だけに限りません。罪の大元は、わたしたちの心に宿っているのです。人間の愚かさによる様々な行い、思い、感情すべてを、聖書は罪と定義付けています。

自分自身を真正面から正直に観察すれば、「自分は善人ではないけれど、悪人でもない」などと決して言えないのではないでしょうか。むしろ、多くの悪の思いが自分の心に宿っているのに気づかされます。この邪悪な罪ゆえに、人間社会は狂っているのです。

自分が罪深い人間であると認識したとき

国の法律を犯す罪は、刑法で裁かれます。しかし、神に対する罪は、神ご自身によって裁かれます。私たちが、創造主なる神から離れ生きているとき、私たちは罪のなかに生きているのです。人は、所詮、自分中心にしか物事を見れません。360度の視点からは見えません。「悪は行わないけど、善も行わない」自己中心的な態度に罪の根っこがあります。私たち人間は、自分を正しいと考える盲目的視点で世界を見てます。その目で社会を観察します。その真逆で、劣等感や自己嫌悪という厄介な感情をもっている罪人です。

私たちは、自我の欲求という罪を解決できない罪人です。霊的な病人です。だから、私たちは主イエス様を必要としているのです。主イエス様は、いつも私たちに声をかけてくださっています。私のもとに来なさいと招いています。

主イエス様の呼びかけに、今すぐに応えてみましょう。この方の教えには、命の礎があります。素直に信じられますように、お祈り申し上げます。読者の皆様に、主の豊かな恵みと愛が宿りますように。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です