コンテンツへスキップ 投稿日:2022年10月15日/更新日:2025年1月30日

知って驚く救い主キリストの真実

聖書を読みキリストを知る人

知って驚く救い主キリストの真実があります。その真実とは何でしょうか。イエス・キリストは、私たち人間の命を創った三位一体の神です。キリストは、私たち人間が信じるに値する方です。1.イエス・キリストは、天から降りてきた三位一体の神、2.イエス・キリストだけが、神への道、3.イエス・キリストだけが信仰の創始者であり完成者、4イエス・キリストだけが人生の師であり先生。聖書が教える信仰とは、イエス・キリストを信じることを指します。

信仰とは?創造主なる神との絆を取り戻す道

1.イエス・キリストは、天から降りてきた三位一体の神

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネ11章1-4節、14節 聖書協会

この宇宙と大いなる自然は、神によって創造されました。この宇宙は、自然発生的に突然出てきたのではありません。すべての物に目的があるように、この宇宙にも動植物を含む自然にも、神の目的があります。さらに神に似せられた我々人間も、目的があって創られているのです。

聖書の観点から見る遺伝子の秘密

創造主なる神は、父、子、聖霊からなる三位一体の神です。天にいらした神の子である方が、人と成られイエス・キリストとして生まれました。この方は、私たち人間の創造主です。ですから、キリストは、私たち人間が「神の贈り物である命」をどのように生きるべきかを一番よく知っているのです。この方を知ることが、我々人間が与えられている氏名なのです。

2.イエス・キリストだけが、創造主なる神への道

神につながるための一本道、キリストを信じる

主イエス・キリストを知るとは、神を信じる信仰です(ヨハネ14章1節-6節)。神との関係を持つには、この方を知らなければなりません。他の誰でもないのです。教会のリーダーを信じても、神との関係を持つことは出来ません。主イエス・キリスト以外に神への道はありません。この方から目を離し、教会のリーダーや牧師を信じたり、教会の組織を信じたりするときに、信仰が盲目的になり躓きのもとになります。

一度、白紙の状態から自分の信仰を吟味してみましょう。何を自分は心から信じているかを、ノートに書き留めてみます。そして、根拠はどこにあるのかを答えてみましょう。

他のクリスチャン、たとえば教会の牧師やメンバーの偽善的な態度を見て、結果的に信仰を捨てたという話をよく聞きます。しかし、牧師であろうと有名な先生であろうとも、人間は誰でも罪人であり過ちを犯し続けます。そのような人の罪を見て、キリストへの信仰を捨てていいのでしょうか。そんなことは絶対あってはなりません。主イエス・キリスト以外に救いの道はありません。主イエス・キリストだけが神の道なのです。では2番目の理由を考えてみましょう。

3.イエス・キリストだけが、信仰の創始者であり完成者

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。へブル12章1-2節 聖書協会

主イエス・キリストは、信仰の創始者であり完成者です(へブル12章1節-2節)。クリスチャンは、信仰の第一歩を信仰の創始者であるイエス・キリストから学ぶのです。主イエス・キリストは、「信仰とは何か」を教えてくれました。「どのように神を信じるのか、愛するのか。どのように隣人を自分のように愛するのか」を実践して、私たちに教えて下さったのです。信仰のスタートラインが、主イエス・キリストにあるのです。

自分の判断が100%正しいなんてありえない、と私は知っています。聖書を100%すべて正しく理解しているなんて、私にはあり得ません。(実際、誰にとっても不可能なことです。)自分が罪人であり、神の御心に反したことをしてしまうのも認識しています。健全な信仰とは、神を信頼すると、同時に、自分の愚かさを知ることではないでしょうか。

同時に、他のクリスチャンの判断にも絶対はないのです。100%正しいということもあり得ません。たとえ、自分が尊敬する牧師の判断であっても、絶対はあり得ません。そもそもカルト的宗教集団が始まるきっかけは、ある宗教リーダーの判断を100%信じる盲目的信仰にあるのではないでしょうか。たとえ、尊敬される有名な牧師の聖書解釈であっても、それを自分自身で考え、検証する必要があります。それを鵜呑みにしていたら、盲目的信仰になってしまいます。

主イエス・キリストは、信仰を完成させた方です。悪魔によって誘惑されたときも、父なる神にすべてをゆだね、信仰をフィニッシュした方なのです。だからクリスチャンは、信仰のスタートからフィニッシュまで、主イエス・キリストに目を離してはいけないのです。クリスチャンの人生は、山あり谷ありです。しかし、そんな人生の嵐が来るときにも、主イエスはあなたの信仰を守ってくださいます。あなたの信仰を成長させてくださいます。

4.主イエス・キリストだけが、人生の師であり先生

信仰の真理は「主イエス・キリストだけが人生の師であり先生である」という事実に基づいています。私たちは、神様の御心に適った生き方を主イエス・キリストから学びます。この方だけが、人生の師であり先生です。だから、私たちの生活にまとわりつく罪をかなぐり捨てて、主イエス・キリストに目を向けて生きなさいと聖書は教えています。

しかし、現実のキリスト教は、主イエス・キリスト以外の人間、教会のリーダーであっても罪人に過ぎなり人間を、特別扱いして神と民の仲介者として見ています。神と民の仲介者は、主イエス・キリストだけです。

クリスチャンは、人生の土台をどこに置いたらいいのでしょうか。キリストが建てている教会の交わりは大切ですが、教会は人生の土台にはなりえません。人生の土台はあくまでも主イエス・キリストにあります。キリストの弟子であるクリスチャンは、この方に倣いこの方から学び続けるのです。ここに人生の土台があるのです。

もちろん、他のクリスチャンからも多くのことを学べますが、クリスチャンの目の焦点は、常に人生の師である主イエス・キリストにあるべきです。主イエス・キリストを日々見上げ、父なる神を礼拝をするーーーこれを日課にしましょう。人生の土台が主イエス・キリストに築かれます。

主イエス・キリストから離れては、クリスチャンは何もできません。つまり、神の御心に適った生き方はできないのです。その意味で主イエス・キリストは霊的な成長の礎です。主イエスはブドウの木であり、クリスチャンは伸びている枝です。ブドウの木から離れて枝は実を結べません。

結論 

健全な信仰は、主キリストとの健全な関係に基づいています。どんなに聖書の知識をもっていても、主キリストとの関係が健全でなければ、クリスチャンとして成長するのは不可能です。教会にまじめに通い礼拝に参加していても、主キリストとの関係が不健全であったら、どんなクリスチャンでしょうか。

健全な信仰は、主キリストとの縦の関係に基づいていますが、必然的に主キリストが教えた隣人愛という横の関係も重要です。隣人を憎んでいて、同時に主キリストを愛す事はできません。教会内の兄弟姉妹と仲が悪い状態で、健全な信仰は保てません。

クリスチャンであっても、信仰の焦点が間違えば盲目的な信仰に陥りやすいのです。主イエス・キリストへの信仰が一番大切である理由3つを説明しました。読者の皆様が、常に主キリストに目を向け霊的に成長されますように、心よりお祈り申し上げます。

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