「心の貧しい人々は、幸いである」の「心の貧しい」という表現は、やや理解に苦しむのではないだろうか?なぜなら、日本語の感覚では「心の貧しい」とは、ともすると「ひねくれている」とか、「心が狭い」というネガティブな意味に使われるからだ。ただ、ある解釈によれば「心の貧しい」とは、「心が(いい意味で)いっぱいいっぱいではない」、「心に隙間がある」、「心に余裕がある」という意味であり、他者を受け入れられる状態だという。
「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」
マタイによる福音書5章3節
日本映画と言えば、「男はつらいよ」。ちなみに、リアルタイムではないのですが、私はシリーズ全48作を観尽くしました。ほぼ毎回、同じパターンで、最終的には、実らぬ恋の物語だったり、人助けをするつもりが返って混乱を巻き起こしてしまうといったように、思い通りに行かないパターンなのです。でも、渥美清演じる“フーテンの寅さん”は、周囲の人々に愛されています。
私は、そんな映画「男はつらいよ」は、日本版『天路歴程』ではないかと思っております。なお、『天路歴程』とは、17世紀はイギリスのジョン・バニヤンによる信仰的寓意物語であり、クリスチャンという名の男が、虚栄の市や破壊者との死闘など様々な困難を潜り抜けて、天の都にたどり着くという体裁をとっています。信仰者、クリスチャンが人生において経験する苦難や葛藤を乗り越えて、霊的に成長する様を例えたものと言っていいでしょう。
映画「男はつらいよ」に話を戻しますが、“フーテンの寅さん”の旅を続ける姿は、地上では旅人である私たち信仰者、クリスチャンと二重写しになります。また、困っている人を放っておけないところも、キリスト教の隣人愛、「隣人になる」という主イエスの教えに通じるところがあるのではないでしょうか?
ところで、冒頭でお読みしました聖句は、有名な、主イエスの「山上の説教」の一節であり、いわゆる“八福の教え”の最初のものです。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」。
ちなみに、「心の貧しい」という表現は、やや理解に苦しむ人も多いのではないでしょうか?なぜなら、日本語の感覚では「心の貧しい」とは、ともすると「ひねくれている」とか、「心が狭い」というネガティブな意味にも使われるからです。ただ、ある解釈によれば「心の貧しい」とは、「心がいい意味でいっぱいいっぱいではない」、「心に隙間がある」、「心に余裕がある」という意味であり、他者を受け入れられる状態だというのです。
野口良哉伝道者の励ましメッセージ
もしかしたら、寅さんも、困っている人を放っておけないところを見ると、「心の貧しい」、ある意味、心の隙間や心の余裕の持ち主だったのかもしれません。私たち信仰者、クリスチャンも、神の愛にしっかりと満たされていく時に、その恵みに応えて、「心の貧しい」状態になる、誰かのために心に余裕を開けておくことができるようになるかもしれません。そんな信仰者はまことに幸いなのではないでしょうか?
「男はつらいよ~フーテンの寅さん~」改め、「信仰者はさいわいよ~望天のクリスチャン~」といきましょう。ちなみに、「望天」とは、天の御国を待ち望むという意味での「望天」です。
読んで下さいましたあなたに、神様の平安が豊かにありますように。
シャローム!