祈りが応えられるということは、必ずしも自分の思い通りに願い事が叶うことではない。と同時に、祈りのプロセスの中で、自分自身が変えられるということが起こり得るのではないだろうか?イエスのゲッセマネの祈りは、そんなことを示唆しているように思う。
「父よ。御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」新約聖書「ルカによる福音書」22章42節 聖書協会
「応えられた祈り(Answered Prayer)」という作者不詳の詩があります。・・・このような詩です。・・・「功績を立てようと、神に力を祈り求めたのに、謙虚に服従するようにと、弱さを与えられた。より大きなことをしようと、健康を祈り求めたのに、より良いことをするようにと、病気を与えられた。幸福になるようにと、富を祈り求めたのに、賢くなるようにと、貧しさを与えられた。人々の賞賛を得ようと、権力を祈り求めたのに、神の必要を感じるようにと、弱さを与えられた。人生を楽しもうと、あらゆるものを祈り求めたのに、あらゆるものを楽しむようにと、人生を与えられた。祈り求めたものは何ひとつ与えられなかったのに、実は私が望んでいたすべてのものが与えられた。このような私にもかかわらず、私の言葉にならない祈りは応えられ、すべての人にまさって、私は最も豊かな祝福を与えられた。」
この詩を通して教えられることは、祈りが応えられるということは、必ずしも自分の思い通りに願い事が叶うことではない、ということなのではないでしょうか?少なくとも私は、今から約三十年前の米国留学時代にこの詩に出会って以来、そのように理解して参りました。
しかしながら、この度、改めてこの詩を読み直しました時に、もう一点、この詩は大切なことを私たちに語りかけているように思ったのです。それは、すなわち、私たちは祈りというプロセスの中で変えられ得る!ということです。
野口良哉伝道者の福音メッセージ
聖書に記されたゲッセマネの祈りは極短い祈りですが、様々な状況から推察するに、実際は表面上の文面ほど短くなかったのではないかと思います。ある意味、この祈りは、全体の前半部分と後半部分の要約なのかもしれません。なぜなら、前半の「この杯をわたしから取りのけてください」との十字架への拒絶的な姿勢と、後半の「御心のままに行ってください」との十字架への受容的姿勢では、その様相がかなり異なるからです。
おそらく、主イエス・キリストは、このゲツセマネの祈りの中で、変えられたのではないでしょうか?その祈りのプロセスのうちに、できれば十字架を取りのけてほしいという人間的な思いが完全に払拭され、十字架が神のみこころならばそれに身を委ね、甘んじるという決意・決断をされたのではないかと思うのです。
決して自分の願望を祈っていけない訳ではありません。いや、むしろ、祈りにおいて、まずは私たちの思いを正直に神の御前に注ぎ出し、その後、必要に応じて祈りのうちに変えられ、やがて、主イエス・キリストのように、みこころに身を委ねるということができたら、幸いなのではないでしょうか?
読んで下さった貴方に、主の豊かな平安がありますように! シャローム