新旧合わせた聖書の正典が決められた過程を説明します。聖書の正典という場合、旧約聖書、新約聖書合わせて、66巻をさします。1世紀には旧約聖書の正典は決まっていましたが、新約聖書はまだ正典化はされていませんでした。
2世紀のマルキオンの正典
キリスト教において、聖書の正典化を最初に試みたのは、2世紀前半のマルキオンという人です。彼は、旧約聖書の裁きの神と新約聖書の愛の神を対比させて、旧約聖書をすべて廃しようとします。新約聖書の中でも、旧約聖書の影響を受けている書を、彼の正典からすべて除きます。結果的に、彼は、ルカによる福音書とパウロ書簡のみを正典としたのです。この聖書は通称「マルキオン聖書」と呼ばれます。
マルキオンの主張に対し、キリスト教内部からは強い反論があり、その議論の過程で新約聖書の範囲を確定する必要性を、教会のリーダーたちは感じるようになります。また、この当時、多くの偽教師が現れて、教会内に広まりつつあったので、それに対抗する理論的な基盤も求められていたのです。
3-4世紀の出来事
180年頃に教父エイレナイオスが、正典としての新約聖書について言及します。新約聖書の範囲についての主な言及は、ほかに2世紀末から3世紀のテルトゥリアヌス、筆者不明の「ムラトリ正典」に示された正典表、3世紀のオリゲネス、4世紀のエウセビオス、アタナシオス(367年復活祭書簡)に見られます。アタナシオスの書簡は、現在新約聖書として知られる27巻すべてを挙げています。
3世紀後半から4世紀前半は、キリスト教にとって激動の時代でした。250年から途中から迫害がほぼ断続的にクリスチャンに対して行われます。伝統的な神々を礼拝するように、クリスチャンは強制されます。最初の迫害は、皇帝デキウス(249年ー251年)によって行われます。次に皇帝ウァレリアヌス(253年ー260年)によって。次にもっとも激しい迫害が、皇帝ディオクレティアヌス(284年ー305年)によって行われます。
皇帝コンスタンチンの改宗と正式に正典が確立

次の大きな事件は、312年に皇帝コンスタンチンがキリスト教に改宗したことです。これによって、キリスト教が、ローマ帝国の国教になったのです。一転して、迫害される教会から、権威をもった教会になったのです。ここで新たなニーズが出てきます。帝国の教会として、正式な教理を定める必要性が出てきたのです。そして、聖書の正典を定めるニーズも一挙に上がります。この時点で、正典は、教会間で多少なりとも議論する必要がありましたが、暗黙了解のごとく正典は決まっていました。そして、397年のカルタゴ教会会議において、聖書66巻の正典が正式に承認されたのです。