原罪とは何か。アダムと人間の罪

原罪とは何か? 原罪は簡単にいえば、「アダムの罪によってすべての人間が堕落して罪人になった」という教理です。原罪は、多くの教派に受け入れられている教理ですが、この教理が神の御心なのかを聖書に基づいて検証します。

原罪とは何か?

原罪という言葉は、聖書にはありません。聖書神学の専門用語です。原罪の概念を最初に提唱した人は、4-5世紀の神学者であるアウグスティヌスです。原罪の概念をもう少しかみ砕いていうと、次のようになります。

「アダムの罪の霊的DNAが、すべての人間に遺伝的に受け継がれているため、すべての人間は罪人として生まれる。」

新生児も罪人して生まれてくるので、罪の赦しのために洗礼を受ける必要があるとアウグスティヌスは主張しています。参照図書 An Augustine Reader, Edited by John J. O’Meara. Image Books, 1973.

アウグスティヌスの神学は、ローマ・カトリック教会の教理に多大な影響を与え、また16世紀の宗教改革者たちの神学をも方向づけたと思います。結果として、原罪は今も正統派の教理として受け入れられているのです。

しかしここで改めて、原罪の教理を検証してみましょう。多くの教派に受け入れられていますが、本当に正しいのでしょうか。この疑問に答えるために4つの聖句を解説します。ローマ5章12節詩篇51篇5節-11節マタイ18章3節‐4節エゼキエル18章3節-13節

ローマの手紙5章12節の解釈

5章12節の文脈

ローマの手紙5章12節を正しく理解するために、ローマ手紙5章12節の文脈を最初に説明します。1世紀のユダヤ人は、民族をユダヤ人と異邦人(ユダヤ人以外の人種)の2種類に分けて考えていました。ところがパウロは、ローマ書で「ユダヤ人とギリシャ人」という区分けをしています。なぜでしょうか。歴史的文化的背景があります。ギリシャ文化は1世紀ローマ帝国全体に影響を及ぼしていたので、ユダヤ人たちは「ギリシャ人」を異邦人の代名詞のように使っていたのです。パウロは、その慣例に従って、ユダヤ人もギリシャ人も(つまり全人類が)罪の下にいると明言していているのです。

  • 1章。すべての異邦人(ユダヤ人以外の人種)はすべて罪人であり、神の怒りを受けるべき存在である。異邦人の罪を具体的に説明している。
  • 2章。ユダヤ人も異邦人と同様に罪を犯している。
  • 3章。主イエス・キリストへの信仰だけが、人間を罪の呪縛から救える。
  • 4章。その信仰の雛型が、ユダヤ人たちの父であるアブラハムの信仰である。
  • 5章1節-11節。クリスチャンには、信仰ゆえに神の平安と希望が与えられている。

上記のような事を書いた後、5章12節でパウロは、人間の罪の根源がどこにあるのかを、1章‐2章とは違った切り口で解き明かします。

5章12節の意味

原罪とは何か

このようなわけで、一人の人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。(ローマ5章12節)

アダムの罪が全人類に多大な影響を与えたのは、誤りない事実です。アダムの罪によって罪が世に入ったとは、どんな意味でしょうか。アダムによって罪が世に入ったことによって3つのことが起きます。

  • 悪魔がこの世の支配者となった。(ヨハネ14章30節、2コリント4章4節)
  • アダムと同じように、この世に生まれてくる人は悪魔によってだまされ罪を犯す。しかし罪人として、生まれてくるわけではない。
  • アダムと同じように、人は死を経験する。

この聖句は、「アダムの罪ゆえに、すべての人間が罪人として生まれてくる」とは教えていません。

詩編51の解釈

原罪論者の決め手の聖句は詩篇51篇です。最初に歴史的な文脈を学びましょう。

詩篇51篇の歴史的な文脈

詩篇51篇の歴史的な背景を説明します。ダビデはバト・シェバと姦淫の罪を犯して発覚した後、詩篇51篇を書きました。この詩はダビデの罪の告白です。悔い改めの詩であり、神に憐れみを求めている信仰を言い表しています。その詩の中ほどダビデは、どれほど自分の罪が重いのかを告白して次のように書いています。

あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。(詩編51章5節-7節)

詩篇51篇5節-7節の意味

自分の母の胎内にいた時から罪人であったと、ダビデは告白してします。この言葉を文字通りに読むと、人間は生まれる前から、すでに罪にあった罪人であると解釈できます。この聖句について、多くの牧師が原罪の教理に沿って解釈していることを管理人は認識しています。

しかしながら、この聖句は詩の表現として考えられないでしょうか。旧約聖書の多く文献は詩に分類されます。その中には、詩篇51篇のような詩的表現が見受けられます。たとえば、ヨブ記31章18節を読んでみましょう。「生まれたときから」(新改訳2017)、「母の胎を出たときから」(新共同訳)やもめを導いたと書かれています。これは「赤ちゃんの時から」という意味ではなく、若い時からという意味での比喩的表現です。

51篇5節―7節も同様の詩的表現です。ダビデは、自分がどれほど罪深いかを、生まれる前にさかのぼって強調したのです。罪の汚い心が、自分のすべてを覆いかぶさっていると言いたかったのでしょう。それを表現するには、自分の罪の現状を説明するだけでは足りなかったのです。そのために母の胎内にいる時から、罪に下にあったと表現したのです。

マタイ18章3節―4節の解釈

マタイ18章3節-4節の歴史的文化的背景とその文脈

マタイ18章3節-4節は、逆に「子供には罪がない」ことを証明するためによく引用されます。

1世紀のローマ帝国の文化において、小さな子供たちは、家庭内では奴隷よりも低いものとして扱われていました。小さな子供たちは、家の手伝いなどまったく出来なかったからです。また同時、女の子は嫁入りのための持参金が必要としていたので、捨てられてしまうことも多々ありました。

マタイ18章3節-4節の意味

このような文化的背景があり、主イエス・キリストは「子供のようにへりくだった者にならなければ、天の御国にはいれない」と言ったのです。この聖句を「子供には罪はない」ことを主張するために使うのは、文脈から外れた誤った解釈です。

エゼキエル18章の解釈

エゼキエル18章の歴史的文脈

前597年にバビロン王国は、エルサレムを攻め入り陥落させました。この時代にエゼキエルは、神の御言葉を預言していました。エルサレム陥落の後、ユダの王ヨヤキンを含むユダの人々は、捕囚の民としてバビロンに連れていかれてしまいます(2列王記24章10節ー17節)。

エゼキエル18章2節「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」は、どのような意味があったのでしょうか(エレミヤ31章29節)。彼らは、この言葉を諺としてつぶやき、「自分たちの先祖の罪によって、私たちは捕囚の民になってしまった」と嘆いていたのです。

エゼキエル18章1節ー13節の意味

ところがエゼキエルの預言は、捕囚の民の思いとは正反対の言葉でした。親の罪が子供へと引き継がれることはありません。人は自分の親の罪のために死ぬことはありません。自分自身の罪によって死ぬのです。

どんなに善を行った人でも、気が変わって罪を犯せばその罪のための報いを受けます。その逆に罪を犯し続けた人が悔い改めたらどうでしょうか。神はその人を受け入れ祝福してくださいます。

結論 人は罪の種を宿して生まれてくるが、罪人として生まれてこない

アダムの罪ゆえに、まだ罪も犯していないのに罪を犯した罪人として、新生児は生まれてくるのでしょうか。

人は罪の種を宿して生まれてきますが、罪人として生まれてはきません。生まれてきた新生児は、罪を知りません。悪魔によってだまされてもいません。しかし自我が芽生え、自分の欲求が一番と考えるようになるでしょう。罪の種が育ち、人は罪を犯すようになります。罪を犯し罪人になります。

このプロセスは、アダムが悪魔にだまされた時とまったく同じです。私たち人間は、アダムが犯した罪と同じパターンを踏襲します。アダムと同じように責任転嫁の言い訳をして、自分を正当化しようとします。原罪論者の主張は一部分は正しいのです。確かにアダムゆえに「人は罪を犯しますが、それはアダムの罪ではありません。アダムの罪のために、その人が神の裁きを受けるのではありません。その人自身の罪のために裁かれるのです。」

しかしながら、私たちの創造主なる神は、もっと素晴らしい計画を人間のために用意されていました。罪の呪縛から私たち人間を救ってくださる計画です。原罪と罪の赦しについても読んでみましょう。

原罪とは?という疑問に答えました。読者の皆様の上に、主イエス様の豊かな祝福が宿りますように。

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