コンテンツへスキップ 投稿日:2023年6月13日/更新日:2025年1月16日

ローマ8章29-39節 神様の救いと祝福

信者は幸い 望天のクリスチャン

ローマ8章29-39節は、神様の救いと祝福を説明しています。どんな意味でしょうか。誤解しないように、パウロの意味を理解しましょう。

神の永遠の救いの計画  

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。ローマ8章29-39節 聖書協会

神様はすべての人間に悔い改めを求めています。ですから、主イエス様は、出会った人々すべてに、悔い改めるように言いました。主を頑固に信じなかったユダヤ教教師たち、律法学者たちにも、悔い改めるように勧めたのです。なぜでしょうか。神様は、すべての人間に悔い改めを望んでいるからです。神様がこのように望んでいても、ある人たちは神様を信じないで、この世の神々を信じています。

しかし、キリストを信じた人々には、夢のような祝福が用意されています。主イエス・キリストと似た者として造り変えてくださり、クリスチャンを永遠の御国へと導いてくださるのです。神様の救いのわざは、不思議なわざです。人間は「驚くべき恵みかな」と神をほめたたえ賛美するしかありません。

何事をもキリスト者を神様から引き離すことは出来ない

上記の聖句を一言で説明すれば、神様は、私たちにどんなことが起こっても、私たちを守ってくださるということです。しかし、私たちには自由意志が与えられています。私たちの方から、神様から離れてしまう事も出来ます。私自身、そのような信仰を捨てて主イエス様から離れてしまった方々を見てきました。そのことも含めて、神様の祝福について考えてみます。

天の神様は、この世に悪がはびこるのを許されています。人間に自由意志を与えるためです。ですから、私たちはこの世でむごたらしい罪のわざを見ることになります。人々が苦しむのを見ることがあります。自然災害もその一つです。クリスチャンに対する迫害や嫌がらせもその一つです。

試練、迫害、危険、災害があったとしても、最終的には、それが私たちキリスト者にとって、利益となっていくのです。むしろ苦しみの中にあってこそ、私たちはもっと主イエス様の愛を感じることができます。

キリスト者にとって、今生きている命も、死んで生きる命も、どちらも主キリストの恵みです。死んでもキリストの愛から離れることはありません。死んでも主イエス様といっしょにいるからです。ですから、死も命も、現在も未来も、悪魔も地獄の力でさえ、私たちを神様から引き離すことはできないのです。生きるも死ぬも、すべて主イエス様がいっしょにいればどちらも同じです。

慢心してはならない

このような聖句を読んで、油断して罪を犯しても、神様は自分を守ってくださると思って慢心してはいけません。

わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。ことわざに、「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。2ペテロ2章20-22節 聖書教会

一度、主イエス様の恵みを味わった後に、教会から離れ主信仰を捨てたらどうなるのでしょうか。その状態は、以前よりも悪くなってしまうのです。罪の意識もなくなり、無感覚になってしまうのです。だから、悪魔は私たちクリスチャンを常にターゲットにして、私たちを迷わせ常にだまそうとしています。では、どのように、しっかりとした信仰を持ち続けることができるのでしょうか。

自分の信仰と神様の守り

 天の神様は、私たちに霊的に成長するためのすべてを与えてくださっています。私たちは気づかないかもしれませんが、神様は、私たちを招いて下さり、神様の恵みと力と知恵で満たして下さっています。しかし、私たちが神様の恵みと力と知恵によって生きなかったら、どうなるでしょうか。先ほど、言ったように堕落してしまいます。

クリスチャンの成長するステップを考えてみましょう。まずは、信仰から神様を知る知識までを考えます。自分が持っているすべての力、肉体的な力、考える力、判断する力、物事を感じる力、すべての力を尽くして、主イエス様を信じる信仰によって生きましょう。そして、愛、喜び、平安という徳によって成長することができます。愛、喜び、平安が自分の一部の人格になっていくのです。

私たちの人格が造り変えられていく状況は、渋柿が甘い柿になっていくのに似ています。渋柿は、食べた瞬間に口から吐き出したくなります。いくら吐き出しても、口の中に柿の渋さが残っています。人間の悪い人格も同じです。人を遠ざけてしまいます。

しかし、そんな渋柿も太陽の日差しと風にさらされ、甘くなっていくのです。キリスト者の人格も同じです。主イエス様に従っていくと、徐々に甘くなっていくのです。より良い人格が造られて行きます。

さらに、神様をもっと深く知る知識が与えられます。これは頭だけでわかる知識ではありません。心でわかる知識です。聖書に何が書かれているかとか、そのような知識だけではありません。神様を知る知識です。

主イエス・キリストを中心に生きていく時、私たちの心はキリストの教えによって、自制と忍耐が与えられます。キリスト中心の生き方があり、意識的に主イエス様について行ってこそ、自制と忍耐が与えられるのです。

さらに、自制は忍耐を生み、忍耐は兄弟愛を生み、兄弟愛から、愛が生まれます。最後の愛は、無条件の愛、キリストが私たちを愛してくれている愛を指しています。人間がもっている打算的なギブアンドテイクの愛ではありません。主イエス様は迫害されても意地悪されも、人々を愛しました。そのような愛が身につくまで精進しましょう。

この成長のプロセスは、外に咲いているバラに似ています。バラは、雨の日も風の強い日も、根をしっかり土の中に張って耐えています。またとても暑い日も、根を張って栄養を取り込んでいます。それは何のためでしょうか。きれいな花を咲かせるためです。

私たちの人生も同じです。自制心と忍耐がなぜ必要かというと、兄弟愛と神様の愛で人々を愛するためです。愛と喜びと平安という実を結ぶためです。このように私たちが生きていけば、私たちは霊的に成長していくのです。

主イエス様をもっと知り、神様に選ばれている確信を持つ

神様は、どんなことがあっても私たちを見守り、私たちを守ってくださいます。私たちは、キリストの愛から引き離されません。しかし、同時に、私たちは、主イエス様をもっと知り、神様に選ばれている確信を持ちましょう。

キリスト者の人生は、キリストが船長の大きな船に乗っている旅路に似ています。時々、大きな嵐、台風が襲う時があります。船が上下左右に揺れ動いて、不安を感じるかもしれません。しかし、私たちの船長は、私たちが行くべき旅路を導いています。

しかも、この旅路は、一人の旅路ではありません。周りに仲間がいます。支え合う仲間がいます。命を分かち合っている仲間です。それが教会です。一人の人が悲しめば、周りのみんなも悲しみます。一人が祝福に満たされ喜ぶ時、周りのみんなも喜びます。これが本当の教会の姿です。もっとも大事なことは、主イエス様が船長であること、私たちを導いている方であることです。

今日も新しい一週間の始まりとして、主イエス様の名によって、天のお父さまを礼拝できました。主イエス様に目を向けて、今週も一歩一歩成長していきましょう。神様がいつも私たちの側にいることを忘れずに過ごしましょう。私たちを引き離すことは出来ません。

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