教会は、キリストの体であり、キリスト者の共同体です。本物の教会になるために、神様の愛を実践する教会になりましょう。
主イエス・キリストは、ご自分の群れのために教会を建てました。現在も、教会を聖霊を通して整えてくださっています。私たち一人一人に働きかけ、私たち一人一人を導き、造り変えてくださっているのです。
今日は、キリスト者は教会の中で成長していくことを、新たに認識し、同じ流れで、教会の人間関係がどのように成り立っているのか、私たちの人間関係がキリストによって、どのように変えられているのかを考えます。
教会のキリスト者の人間関係
パウロは、一人一人のクリスチャンが信仰の度合いに応じて、神様によって与えられている役割を考えなさいと12章3節を言っています。それぞれが役割が与えられていると。さらにパウロは、12章4-8節で、教会の役割とミッションを説明しています。悪魔にだまされないように、一人一人が、キリストの愛にしっかりと根付きなさいと教えています。今日の聖書箇所は、この続きです。
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。ローマ12章9-21節 聖書協会
愛が偽りがあってはならないと諭して、愛の実践例をあげています。この愛の実践例は、教会のキリスト者の人間関係を説明していますが、もっと深読みしてみましょう。
すべての宗教は愛を語る
愛と一言で言ってもいろいろです。なぜなら、すべての宗教は、愛を語るからです。パウロも、他の宗教が愛を語っていることを知っていました。だからこそ、愛に偽りがあってはならないと言っているのです。パウロが語る愛とは、何でしょうか。神様の愛です。ギリシャ語でいえば、アガペの愛です。
神様の愛は聖なる愛です。正しい事を正しいと、間違ったことを間違っていると教える愛です。愛によって、悪を悪と認め、罪を罪として断罪します。
神様の愛は、人間の宗教が語る愛ではありません。自分の都合によって、コロコロ変わる愛ではないのです。だから、パウロは、この愛に偽りはあってはならないと戒めているのです。
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愛に偽りがあってはならない
愛に偽りがあってはならないとパウロは言っていますが、これにどんな意味があるのでしょうか。
主イエス様は、ユダヤ教教師たちを、「神様の真理も愛も知らない偽善者である」と断罪しました。なぜでしょうか。彼らの愛は見せかけの愛だったからです。人に見られている時だけ、人に愛を見せていたのです。
ユダヤ教教師たちの偽善を指摘するのは、簡単です。しかし、人を裁く前に、自分の目の中の丸太に気が付いているでしょうか。本物の主キリストの弟子として、人が見ている時も見てない時も、愛の実践は必修です。
愛を語ることは簡単ですが、実践は全く別物です。主イエス様が人々を愛したように、私たちは愛しているでしょうか。自問自答してみましょう。なぜなら、愛の基準は主イエス様にあるからです。
しかし、ここで大きな問いかけをしたいと思います。
もし神様の愛が実践されなかったら、どんな教会?
もし神様の愛が実践されなかったら、どんな教会になるのでしょうか。それは正に偽善の教会です。形だけは教会に見えるけれど、中身がありません。教会と言っても名前だけです。もはや教会ではありません。
クリスチャンを長くやっていると、クリスチャンの集まりと言えども、人間の嫌らしさ、人間の罪深さを、人間関係の中で垣間見ることがあります。ドロドロした人間関係を見たことは、何度もあります。こんな事は認めたくはないのですが、本当のことです。
しかし、健全な教会には、聖霊による自浄作用、自浄能力が与えられています。教会のメンバー一人一人が、間違いに気づくのです。霊的な病気に気づくのです。霊的な病気が癒されます。
悪を悪として認識することができます。聖霊の自浄能力がない教会は、悪を善と言ってしまいます。牧師が言っていることが、すべて正しいと思ってしまうような教会です。このような教会は、名前だけの教会になっているのです。
本物の教会では、神様の愛が実践される
本物の教会では、神様の愛が実践されます。ここが本物の教会になれるか、なれないのかの分岐点です。主イエス・キリストは、私たちに期待しています。主キリストが望むクリスチャンになることが私たちの使命です。人間の力では不可能ですが、神様には不可能はありません。
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。ローマ13章8-10節 聖書協会
キリスト者の言動には、あれはやってはダメ、これをやりなさいと言ったリストがあるかもしれません。そのようなイメージをもってる人が多いのかもしれません。
しかし、神様の愛を実践することが、私たちキリスト者の生活の基準ではないでしょうか。キリストの愛を基準に考えれば、何をやるべきか、何をやってはいけないのかが、自然と決まってきます。
なぜなら、キリストの愛を実践することが、律法を全うしているからです。教会に初めてきた人たちが、ここは本当に愛に溢れた教会だと感じてくれるような教会になりましょう。誠実と親切と平和に満たされた言葉、愛に満たされた態度を持ちましょう。もし私たちが、神様の愛に焦点を当てて、生活したら教会も変わってきます。教会も成長します。
神様の愛を実践するために、個人的な目標を作りませんか
神様の愛を実践するために、個人的な目標を作ってみませんか。正直、言いまして、わたし自身、愛情あふれる人間ではありません。愛を実践するのが苦手です。その時、その時、ふさわしい愛の言葉を、人々にしてあげることは、私にとって非常に難しい事です。
また人々に神様の愛を感じてもらえるような行動をするのも、私にとっても難しいのです。こんな私ですが、自分自身の霊的な成長のために、神様の愛を実践できるように、個人的な目標を作ってみたいと考えています。
皆様も神様の愛を実践する目標を掲げたらどうでしょうか。例えば、3つを例に挙げてみます。
- お互いに祈ることを約束する
- 互いに喜び、互いに悲しむ
- 善を尽くす
私たちが、愛の実践をするようになったら、たとえ今は人数は少ないと思えても、私たちは必ず成長していきます。なぜなら、私たちは、神様の愛を分かち合うからです。主イエス様が愛したように、暖かい言葉、愛の言葉を語ります。そんな教会が、本物の教会ではないでしょうか。
主イエス・キリストが、常に褒めたたえられるように、初めて教会に来る方が、ここは他の教会とは違う、聖霊が本当に宿っている教会と思ってもらえるように、神様の愛を語り実践しましょう。
ローマの手紙