コンテンツへスキップ 投稿日:2023年5月12日/更新日:2025年1月29日

ローマ14章1-14節。意見の違い

みんなで協力して一致する人たち

キリスト者は、同じ父なる神様を信じ、主イエス・キリストを信じています。そして、同じバプテスマを受け、同じ聖霊を受けました。それでも、私たちは違った感性、違った性格、違った考え方をもっているので、クリスチャンの間にも意見の違いがあります。クリスチャンが、意見がまったく違う場合、どのように対処すべきでしょうか。

キリスト者の意見の違い

信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。ローマ14章1-14節 聖書協会

同じ主イエス・キリストを信じていても、私たちの信仰には、意見の違いがある現実をこの聖句は教えています。しかし、この意見の違いは、悪いことではありません。しかし、一歩間違えば、大変な罪になります。ですから、その意見の違いについて、どのように対処するべきか、いっしょに考えてみましょう。

最初に1世紀の宗教的背景を理解しましょう。1世紀のユダヤ教では、清い食べ物と汚れた食べ物を区別する慣習がありました。そのような慣習に慣れ親しんだ人たちが、クリスチャンになっても、汚れた食べ物は食べなかったのです。異教徒の間でも似たような慣習がありました。

食べ物に霊的な力はありませんが、それをはっきり知らない人もいます。そのような人の信仰は、信仰の弱い人とパウロは言っています。信仰が弱いとは、信じる度合いが弱いという意味ではありません。神様の御心を、まだ十分に理解していないのです。しかし、そのような人に対して、どのように対処すべきでしょうか。

信仰の強い人もいれば、弱い人がいることを、私たちは時々忘れてしまいます。何でも同意できるまで、議論する人もいます。私も20代の時は、そのような態度を持っていました。もっと悪いことに、自分の意見と会わない人がいれば、「なぜこんな簡単なことがわからないのか」と思って、その人を裁いてしまうような所が私にはあったのです。そのような間違った行いは、悔い改めなければなりません。

1コリント8章1-13節、人の躓きの原因

他の人の信仰を敬う、裁かない

自分と意見が合わないからとして、その人を裁くのは100%誤った行いです。むしろ、意見が違う人の信仰を敬うべきです。賛成はできないかもしれません。しかし、それでも敬うべきです。

意見が違う、信仰が違う人を見て、「なぜ、こんな事を信じているんだろうか。ちょっと、この人は信仰がおかしいのではないか」と思ってしまう人もいます。「何とか、この人の間違った考えを直さなければならない」という善意で、議論を始める人もいます。

しかし、意見や信仰が違うからと言って、見下したりしてはいけません。なぜでしょうか。神様が、その人を認めているからです。神様が、その人をクリスチャンとして立たせているからです。神様が認めている人を、私たちが裁く権利などありません。

14章13節に「つまづきになるものや、妨げになるものを、兄弟の前に置かなように決心しなさい」と書かれています。これは具体的にどのような意味でしょうか。

参照記事 神様は人を裁かず待っている

他の人に躓きを与えないために

1コリント8章1‐13節を読んでみましょう。1世紀のローマ帝国では、偶像にささげられた肉が、市場で売られていたのです。偶像礼拝していた人たちが、クリスチャンになりましたが、まだ信仰の土台がしっかりできていません。偶像にささげられた肉を食べると、この人の信仰が揺らいでしまうのです。

しかし、偶像にささげられた肉でも、そうでない肉でも、同じです。供えられた肉を食べても、何のご利益もないし、また災いもないのです。しかし、すべての人がこのような知識をもっているのではありません。こんな時、どうすれば良いのでしょうか。

その弱い信仰を持っている人に行って、議論をすべきでしょうか。「あなたは間違っている。私を見なさい。そんな肉を食べても気にならないでしょう。」と言うべきでしょうか。そして、その弱い信仰を正すべきでしょうか。その弱い信仰を壊して、強い信仰を教えるべきでしょうか。

そんな事はしてはいけません。その人の信仰を受け入れ、見守ってあげるのです。神様が、その人を導いて下さるように祈りましょう。さらに、その人の目の前では、偶像にささげられた肉を食べない、とパウロは言っています。その人に躓きを与えないためです。

主イエス様は、私たち一人一人を見守っています。信仰の弱い人も、強い人も、同じように見ています。そして、いつも声掛けをしてくださっています。主イエス様は、いつも私たちに言っています。「わたしについて来なさい。わたしに学びなさい」と。主イエス様が、忍耐強く見守り、導いて下さっているのに、私たちが、自分の知恵でその人の信仰を変えようなどと思うことなど出来るのでしょうか。

一人一人が、主の御前で申し開きをするから

私たちが信仰の違いや意見の違いを受け入れるべき理由、もう一つ大切な理由があります。それは、最終的に、一人一人が、主の御前で自分の信仰について申し開きをする時が来るからです。

私が、他の人の信仰や意見を裁く事はできません。なぜなら、神様ご自身が私たち一人一人を裁くからです。主イエス様が再臨されるとき、キリスト者も含めたすべの人間は、神様の御前にひれ伏します。

どんな事を信じ、どんな信仰をもって生きてきたのかを、主の御前で申し開きをする時がきます。私たちは、キリストの共同体の中で、お互いに励まし合いながら、生きていくのです。

自分の信仰、信条を自己主張して、「自分の信条が正しく、他の人の信条は間違っている」と言い張る人を見てきました。私自身も、このような態度を持って間違いを犯したことがありました。非常に愚かな行いです。

この聖句も1世紀の文化が背景で書かれていますが、その原則は私たちに当てはまります。自分が正しいと信じていることを、他のクリスチャンを省みず、主張したり、行動していたら、どうなるでしょうか。人の躓きになってしまう、とこの聖句は警告しています。

他の人を省みず自分の信仰、意見を主張する時

私たちが、他の人を省みず、自分の信仰や意見を主張する時、あまり良いことは起こりません。

他の人の信仰を省みない一線を越えると、私たちは多くの問題を抱え込むことになります。意見が違うからと言って、その人の人格まで疑うようになってしまったら、もう本末転倒です。「なぜこんな簡単な事が、彼は見えないのか。その人は単細胞だから仕方ない」などと、ある人が言っているのを聞いたことがあります。こんな事があってはいけません。

人には、それぞれ違った信仰があって当然です。その違いには、善悪はありません。ある人は、これを信じている、他の人は信じていないと言っても、主イエス・キリストを人生の師、先生と信じている限り、何ら悪い事ではないのです。

しかし、一度、躓きを与えてしまうような人間関係においては、信頼関係を持てなくて、修復がなされないままの場合もあります。だから、気をつけなければなりません。

自分の信仰は自分の中にしまっておく時

意見の違いを認識して、自分の信仰は自分の中にしまっておいた方がベストな場合があります。私たちは一人一人、聖書について、主イエス様について、教会について、違った意見を持っているかもしれません。それはみな、自分の信仰に基づいて、決めるべきことです。他の人から押し付けられたりして、決めることではありません。また他の人に押し付けてもいけません。

もしあなたが、他の人の信仰とは違う、まったく違った意見を持っていると思っていたら、そっと自分の心の中にしまっておきましょう。親しい友人と分かち合うことは、良いことだと思いますが、それを議論の道具にしてはいけません。

しかし、ここで疑問が湧いてくるのではないでしょうか。聖書は、明らかに、「お互いに信仰を分かち合い励まし合いなさい」と教えています。

信仰を分かち合うとは、お互いに主イエス様の方に目を向けるという事ではないでしょうか。信仰という絆で手をつなぎ、天の御国に向って歩む事ではないでしょうか。主イエス・キリストへの信仰を分かち合い、励まし合う事と、ただ単に自分の信仰や意見を主張するのには、大きな違いがあります。常に、他の人の信仰を省みて、信仰を分かち合う事、これが重要ではないでしょうか。

主イエス・キリストが建てている教会は、意見の違いを超えて主イエス様にあって一致できる教会です。共に、主イエス様の御心を求めて、祈り合える共同体です。私たちが目指す教会は、教派の教理に囚われない自由な教会、教派の教理を出来る限りそぎ落として、どんな教派から来ても、いっしょに礼拝できる教会になりたいと考えています。

キリスト教には星の数ほど教派があります。その発端は、キリスト教のリーダーたちが、自分の意見を神様の御心であると主張し始めた所から始まっています。そんな事が横田キリストの教会にありません。意見の違いを持っているのは、当たり前です。だからこそ、一人一人が自分の信仰に責任を持つべきなのです。なぜなら、私たちはすべて主イエス様の御前で自分の信仰について申し開きをするからです。

同時に、私たちは、主イエス・キリストを信じる同じ信仰をもっている共同体、教会です。一人一人が、主イエス・キリストに目を向けているキリスト者の集まりです。今週も、主イエス様の教えに従って過ごしましょう。

参考記事

健全な教会のクリスチャンには自由がある 

先ほど、教会には様々な教会があると言いましたが、健全な教会もあれば、病気の教会があるのも事実です。健全な教会には、クリスチャンの自由があります。

この自由は、主イエス様が与えて下さっている自由です。しかし、私たちはこの自由を悪用してはいけません。むしろ、他の人々のために使うのです。

1コリント10章23-24節を読んでみましょう。病気の教会では、ある人の信仰告白が、他の人の信仰が壊してしまうことがあります。信仰告白するのも自由、聖書の解釈について議論するのも自由、しかし、そのようなことが、他の人に躓きをあたえていないかどうかを、考えなければなりません。

人間は私たちを束縛できません。宗教も束縛できません。実際、主イエス様も私たちを束縛するようなことはしません。主イエス様に目を向ける時、そこには自由があります。

悪魔は、「お前の自由はお前のものだ。自分が思うように使え」と言っていますが、これは本当の自由ではありません。悪魔に操られているだけです。主イエス様が与える自由とは、何にも操られていない、束縛されていない自由です。

クリスチャンは、主イエス様のためにその自由を使います。主イエス様が褒め称えられるように、その自由を使います。他のクリスチャンのクリスチャンが励まされるように、自由を使います。たとえ、信仰に置いて意見が違っていても、他の人の信仰を敬います。尊重します。見下したりしません。むしろ、その意見が違う人のために祈り、善を行います。

結論 信仰の強い人と弱い人

今日は、信仰の強い人と弱い人について考えてみました。自分と意見がまったく違う人に、どのように対処すべきかを考えてみました。

主イエス様が一番という信仰告白は、どこでもいつでもすべきです。しかし、その一線を越えて、自分の意見を自己主張する時に、間違いが起こります。私は、クリスチャンになって、30年以上たちますが、聖書解釈の違いでクリスチャンの論争を、数限りなく見てきました。その結果は、いつも同じです。悪魔の罠にハマってしまうのです。人間関係が壊れてしまいます。

横田キリストの教会では、そのような悪魔の罠にハマる必要はまったくありません。信仰の弱い人を受け入れ、自分の意見が違う人を心から受け入れましょう。主イエス様の兄弟姉妹として、主イエス様が愛してくださったように、愛し合いましょう。

今週も一週間、お互いに切磋琢磨して、霊的に成長しましょう。私たちの目と耳は、常に主イエス様の方に向いています。この世にはいろいろな雑音が存在します。目移りするものがたくさんあります。しかし、主イエス様は、今も私たちに話しかけています。心の目で主イエス様を見て、心の耳で主イエス様の教えを聞きましょう。

「ローマ14章1-14節。意見の違い」への2件のフィードバック

  1. クリスチャンの意見の違いで仲たがいするのは、悲しい事ですが、頻繁に起きてます。でもこれも罪深い私たちがしてしまいがちな事です。クリスチャンになったばかりの頃は、そんな人たちに嫌気がさしましたが、仕方ない事なのかなと今はあきらめの境地です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です