古代ローマ教会の成り立ちを、ローマ人への手紙の歴史的文化的背景として解説します。ローマ教会が、どのように状況におかれていたのかを理解することは、ローマ人への手紙を正しく理解するうえで非常に重要です。
古代ローマ教会は使徒ペテロが建てた?
ローマ・カトリック教会の伝承によれば、ペテロがローマ教会を建てたといわれているが、実際そのような歴史的根拠や資料はない。ローマ教会がどのように始まったかは不明であるが、ローマ人への手紙と使徒行伝から合理的な推定はできる。パウロは、他の人が建てた土台の上に教会を建てたりはしないと明言している(15:20)。このことからパウロが、ペテロの息がかかったローマ教会に手紙を書き、ローマ訪問を熱望していると考えるのは無理がある。仮にペテロがローマ教会を建てたとすれば、パウロはペテロの働きについて言及してしかるべきだが、そのヒントさえない。
パウロ以外の使徒が、ローマに行き教会を建てたのだろうか。そのような経緯は、使徒行伝に書かれていない。もしパウロ以外の他の使徒が、ローマ教会を建てたとすれば、ローマ人への手紙にそれが少なくとも示されているはずであるが、それも見当たらない。
古代ローマ教会の成り立ち
ローマは帝国の首都であり文化の拠点であったために、多くの人々が出入りしていた。またローマを通して貿易がさかんに行われていた。多くの人々がローマに移住していたに違いない。当然、その中にはクリスチャンもいた訳で、そのクリスチャンがローマ教会を始めた可能性もある。しかし同時に他の可能性も考察すべきである。まずキリストが復活した後の教会の状況を考慮に入れて考えてみよう。
ペテロが五旬節に語った最初の福音メッセージを聞いた人々には、ローマから来ていたユダヤ人たちが含まれていた(使徒2:10)。最初のユダヤ人クリスチャンが故郷ローマに戻り、主イエスの体として福音を宣教するために集会を持ち始めたと考えるのが一番妥当である。また4世紀の文献によれば、ローマの教会は最初ユダヤ人クリスチャンたちによって始められ、使徒たちによって建てられた教会ではないと証言されている事も考慮に入れておくべきであろう。
縦横無尽にローマ帝国を宣教したパウロ自身は、この手紙を書いている時点で、ローマ教会を一度も訪れていなかったのである。しかし、ローマ教会にはパウロの知人が多くいたようである。この事からわかるように、ローマ教会はある特定の使徒によって建てられたのではなく、ローマに移住してきたクリスチャンによって始められた可能性もある。
古代ローマ教会はユダヤ人クリスチャン中心の教会
首都ローマの人口100万人の内のおおよそ5万人くらいがユダヤ人ではなかった、と推測されている。ローマの歴史家スエトニウスは「ユダヤ人たちはクレストス(キリスト)の扇動によって騒動を起こしているために、49年にクラウデオ帝はユダヤ人たちをローマから追い出した」(訳:野々垣)と書いている。この史料からローマの教会が活動していた時にはすでに多くのユダヤ人たちがいたと考えられる。クラウデオ帝の命令が発せられた当時、クリスチャンはユダヤ教の一派と考えられていた。
そのような状況でイエスがクレストス(キリスト)であるかどうかという議論がユダヤ人社会に渦巻き大きな騒動になっていた。その騒ぎを鎮めるためにクラウデオ帝はクリスチャンを含めたすべてのユダヤ人を退去させる命令を発したと考えられる。退去を命じられた中にはクリスチャンであったアクラとプリスキラがいた(使徒18:2)ことからもローマの教会にはユダヤ人クリスチャンが含まれていたと思われる。さらにこの命令は異邦人伝道が本格的にローマ帝国全土に始まる前に出されていることからも、最初のローマの教会の構成メンバーはほとんどユダヤ人クリスチャンであったろうと推察される。
ローマ人への手紙が書かれた当時のローマ教会の状況
パウロがこの手紙を書いた時、ローマの教会にはどのような人たちがいたのだろうか。若いクリスチャンばかりだったのだろうか。霊的に成長していたクリスチャンが多くいたのだろうか。人種的にはユダヤ人ばかりだったのか、それとも異邦人ばかりだったのだろうか。この手紙では旧約聖書が多く引用されていることから、ローマの教会の主要メンバーはユダヤ人クリスチャンではなかったかと推測する学者もいるが、この推測は次の大切な一点を見落としている。それは新約聖書の手紙の論拠は旧約聖書に基づいているということである。
確かにローマの教会は当初ユダヤ人が主なメンバーであったが、その後パウロがこの手紙を書いた57年頃までどのような変化を遂げたのだろうか。教会内に問題はなかったのだろうか。手紙が書かれた時のローマの教会の状況を精査することは、パウロがどのような意図で手紙を書いたのかを知る上で非常に重要な鍵になり、またそのメッセージを釈義するために必要なことである。ここでローマの教会の状況を歴史的史実から一つ一つ紐解いていく。
クラウデオ帝の命令がローマの教会に多大な影響を及ぼしたことは学者たちによって主張されてきたが、具体的に示されては来なかった。James C. Waltersによれば、この命令は3つの点でローマの教会に影響を及ぼした。(1)人々(クリスチャンを含むユダヤ人たち)はローマから退去させられた、(2)ユダヤ人とクリスチャンのそれぞれの自己アイデンティティーが変化した、(3)ローマのクリスチャンの一致が乱された。
クラウデオ帝の命令(49年)が出された当時、ローマ社会においてクリスチャンはユダヤ教徒?の一部として見られていた。ユダヤ人に対する退去命令は、ユダヤ教徒?の一部と考えられていたクリスチャンに向けられたが、その中には異邦人クリスチャンも含まれていたのだろうか。1世紀のユダヤ人の定義は、その民族や人種を指しているのか、ユダヤ教を実践している人を指しているのだろうか。古代の文献からは民族や人種で取られるよりはユダヤ教を実践している人々をユダヤ人と称していたようである。ゆえにローマ皇帝はクレストス(キリスト)に関して騒動を起こしている人々、つまり異邦人クリスチャンを含めたユダヤ人と思われる人すべてを退去させたのである。
エルサレム会議の後に
50年頃、エルサレム会議(使徒15章)が開かれ異邦人宣教がエルサレム教会で公に認められた。それに伴い教会のユダヤ人と異邦人の割合が徐々に変わっていった。帝国内に異邦人クリスチャンの数も多くなっていた。またローマに移住したクリスチャンもいたに違いない。そのような時にローマでユダヤ人退去命令が出されたのである。ローマの教会にクリスチャンを含むユダヤ人と称される人たちはいなくなったが、キリストの教えを基にした教会が消えたわけではなかった。
49年のユダヤ人退去命令から54年にクラウデオ帝が死ぬまでに、おそらく新たに多くの異邦人クリスチャンが移住してきたに違いない。彼らが始めた教会はまったくユダヤ教の文化的要素がない教会であった。つまりユダヤ教とは一線を画す共同体として存在していった。一方、ユダヤ人たちは教会の異邦人化に伴って、自らをクリスチャンとはまったく違った共同体として見るようになっていった。また彼らはクリスチャンとはまったく関係がないグループである事を帝国政府にも表明し働きかけていた。このはっきりとした区別がすでにあったから、ネロ帝が64年にクリスチャンだけを標的にして迫害することも容易であったのである。
ユダヤ人クリスチャンが中心であったローマの教会は、その形態や様式もユダヤ教会堂の礼拝を受け継ぐものであった。ユダヤ人退去命令によって教会が一変したのである。クラウディオ帝の死後、54年以降は異邦人クリスチャンが主体の教会になり、ユダヤ人クリスチャンが加わるような状態になったのである。この変化はローマの教会の聖書理解に多くの影響を及ぼし、また教会内に混乱を招いたと思われる。この意味では、パウロが様々な都市で宣教して建てた教会とは異質なものだった。
パウロの宣教では、最初にユダヤ教会堂に行って福音を伝えたが、多くの場合ユダヤ人の迫害を受け結局最終的に異邦人に向かって福音を伝えて異邦人教会を建て上げた。パウロの家の教会は最初から異邦人主体の教会であったのである。ところが社会的に変貌したローマ教会の混迷した状況は、福音メッセージがユダヤ教にルーツがあると考えていたユダヤ人クリスチャンにとっては困惑するものであった。また異邦人クリスチャンにとっても神学的に福音メッセージの根本をどこに置いていいのかはっきり分からなかったのかもしれない。このような神学的に混迷したローマの教会にパウロは手紙を書いたのである。