コンテンツへスキップ 投稿日:2023年11月5日/更新日:2024年12月22日

ルカ5章17-26節、キリストが認める信仰

キリストと2人で歩む信仰

ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

ルカの福音書5章17-26節 聖書教会

                           

イエスの見た信仰 

主イエスの教えに律法の専門家が聞き入ります。教えの場にいますが、心の底はどうであったかは少し先で明らかになります。各地から集まり聞き入っていたことは興味のあるところです。教えを専門とする者たちが、主イエスの教えを聞くために座ります。敵対心を抱きながらでも、教えの場に座るのは、自分たちには無い何かを求めているからです。様々な視線が入り乱れるなか主イエスは御力で病気を直します。神が生き働くことを彼らの前で現します。

するとそこに、神がまさに働く現場です。男たちが自分たちではどうにもならない病人を運んできます。床のまま運んで来た、病んで身を起こすことが出来ません。絶望で横たわる床といってもよいでしょう。しかし、男たちは絶望していません。何とかして病人を主イエスの前に置こうとします。主イエスの前に望みを表します。

彼らの思いに反して状況は厳しいものがあります。ようやく主イエスに近づいたが混雑で病人を主イエスの前に運べません。まるで荷物を運ぶように描かれます。男たちは重荷を抱え、身動き出来ない病人を運ぶしかなかったのです。主イエスの前に運び置く手立てが見つからないように見えたとき、新しい扉が開きます。屋上に登り、瓦をはがし、上からの扉が開かれます。

屋根を突き抜けて

人々が動き順番が来るのを待っていませんでした。他人の家の屋上に上り、屋根瓦をはがすことまでします。家主のことを思う間もなく行動に出ます。人の家を破壊して入口にします。順番を越えて行動する身勝手と言われればそうです。しかし、彼らは動きます。憐みのこころは出来ることを総動員し隣人となる行動を起こさせます。見たことの無い行動で、人目には奇異に見えても、新しき行動を起こします。そこに主イエスがおられるからです。

病人は人々の真ん中の主イエスの前につりおろされます。人々はただ驚き、家主の言葉はありません。病人は主イエスの前に降ろされます。行儀よくありません。パリサイ人や律法の教師たちの邪な思いでも、当時教師から学ぶ姿勢、座って主イエスの前に身を置いたのです。しかし、ここは屋上から、それも寝床のままの登場です。絶望の姿を主イエスの御前にさらけ出します。

イエスの宣言

主イエスは言われます。「友よ。あなたの罪は赦されました。」病床にある者に友よ、と呼び、罪の赦しの宣言です。友よ、の時点で寝床の者の罪は赦されています。友と呼ばれ、その御声が届くとき、赦しが、救いが、あらゆる絶望を押しのける歩みが始まります。病床から、否、病床にあっても主イエスに在る歩みが始まります。

宣言の直前、彼らの信仰を見て、とあります。無言で病人を置くべき場に降ろします。病人が癒されず引き上げることなど考えず、主イエスを信頼します。信仰が見えます。絶望を目の前にしながら、そこで主イエス・キリストに希望を確信し集う、希望の共同体、教会が見えます。そこで彼らと呼ばれる者たちは、教会のかしらである主イエス・キリストを知っています。

だから、すべてを主イエス・キリストの御前に置きます。主イエス・キリストだけにある望みを生きる者たちです。あらゆる努力を惜しまず注ぎ、委ね切ります。それを見て主イエス・キリストは「友よ。あなたの罪は赦されました」と宣言します。求めなさいそうすれば与えられます、と私たちに語り掛ける主イエス・キリストの信実が現れます。

宗教家たちの反応

宣言に運んだ男たちの言葉はありません。ところが、律法学者とパリサイ人たちは理屈を言い始めます。彼らこそ罪の赦しの重大さを承知している者です。罪の赦しを聞き、喜ぶ筈です。ところが、理屈は別の方向に進みます。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」罪赦された者への喜びの共感はなく、イエスを攻撃します。彼らに理屈はあっても憐みの心が一滴も無いのです。

憐みの主が彼らの理屈を見抜きます。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。」どちらも人には不可能です。主イエスは、どちらがやさしいか、と問います。宣言した主イエスはすでに答えています。それで終わりません。さらに主イエスのみことばです。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」理屈の彼らに主イエスは御業を行います。

罪の赦しの権威を主イエスが持っていることをわからせるために行動します。「中風の人に、『あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』と言われた。」理屈で攻める律法学者やパリサイ人たちとの対話は切れません。彼らが悟れるように願います。その終わりで、病人に命令し立たせます。それも、起きて、寝床をたたんで、家に帰りなさい、と指示します。赦しも癒しも主イエスを通し起こっている事実を見ます。

ルカの福音書の解説 戸村甚栄伝道者

癒された人

主イエスのみことばで病人はたちどころに立ち上がり、床をたたんで、自分の家に帰ります。主イエスの権威が明らかになります。病人は立ち上がり、神をあがめながら、とあります。罪を赦された者の姿です。新しくされ家に帰ります。主イエスがなさったことの証人として生きる一人となります。残された人々はあっけにとられます。神をあがめ、恐れに満たされます。そして告白です「私たちは、きょう、驚くべきことを見た」と言った。神が生きられ、働かれる現場を見たのです。

律法学者やパリサイ人たちの理屈は消えます。響くのは、罪赦され、絶望から立ち上がった者の神への賛美です。神が罪を赦す権威を主イエス・キリストにより明らかにした出来事への賛美に人々が加わります。神への畏れから告白します「私たちは、きょう、驚くべきことを見た」。主イエス・キリストを通し働く神を見ます。絶望から、屋根を突き破った男たちの愛の業に応えてくださった主イエス・キリストに生ける神を見て礼拝が起こります。

蕨キリストの教会 戸村甚栄

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