コンテンツへスキップ 投稿日:2024年2月21日/更新日:2024年12月22日

ルカ6章27-36節、キリストについて行く

キリストについて行く人

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

ルカの福音書 6章27-38節 聖書協会

御国について 

御国の開始を主イエスに見る時、弟子たちや群衆は目の前に起こっている事柄への視線が変えられてゆきます。新しい世に入ってゆきます。そして、お語りになる主イエスに目が、耳がさらに開かれてゆきます。主の御語りは続き、聞く者に御国が広がります。みことばを信じ聞く者に御国が現実化します。

御国を二つの視点から語り得ると思います。一つは領域の視点です。ある国が他の領域を征服し国境線を拡大した結果獲得される国です。歴史的、地理的出来事です。もう一つは支配の及ぶ領域の御国です。境界線は無くひとりの支配者に従う国です。御国がここにとか、あそこにというものではなく、あなたがたのただなかに、と語られた主イエスの啓示による事実です。やがて領域を含むみこころによる支配の日が来ます。来る主の日には領域も支配も主の下になります。

主イエスのみことばを信じ聞く者たちに御国が拡大し、その支配を証しする私たちです。キリストのからだなる教会の支配は自分たちによるのではなく、主イエス・キリストであると告白する群れです。それが主日礼拝での出来事です。そこでの説教、聖餐、献金は主のご支配のなかで実践されます。主イエスが開始された御国の前進運動のなかに私たちは生かされています。

弟子の道

御国開始をお語りになった主イエスは、しかし、と異なった視点へ展開します。いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。それまでの延長線上で語ればよいと思いますが、そうはされませんでした。しかし、を挟み、そしてあなたがたと呼び、わたしと名乗るのは、他の誰でもない、語るのはこのわたしですと念押し、耳を澄まし聞くよう迫ります。

直前の幸いを繰り返し、来る御国では事柄が逆転する語りとは異質です。初めのみことばは当時の社会で聞いたことのない教えです。歴史上放たれたことのない言葉です。このみことばが主イエスより放たれて以来世界は敵と新しい関わり方を知ることになります。敵を愛しなさい、の命令です。愛するかどうかの選択肢はありません。厳しいみことばです。

命令の状況が語られます。「いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。」敵を愛することは、あなたを憎む者に耐え忍びなさい、ではありません。善を行いなさい。のろう者を無視しなさい、ではありません。祝福しなさい。侮辱する者に関わることはありません、ではなく、その者のために祈りなさい。命令に従えない自分に失望したのではないでしょうか。主イエスは難しいからと命令を控えようとはされません。

ルカの福音書 解説 

危機における弟子道

さらに、危害が襲ったときを語ります。片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。打たれた痛みが消えない間に、逃げなさいではありません。もう一つの頬を向けなさいです。間髪を入れずに襲う一撃を覚悟しなさいでしょう。上着を奪い取る者には、他を取られないように注意しなさい、ではありません。下着も拒んではいけません。その上、すべてとことわり、求める者には与え、さらに奪い取る者からは取り戻してはいけませんです。

ここまで来ると、いかに主イエスのご命令でも従いようがないと絶望です。その者に主イエスの語り掛けです。「いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。」黄金律として親しまれるものです。「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」自他を分けず、密接な関わりを教えられます。自己から派生する関わりです。「人にもそのように」と語るのは、分け隔てなくの意味を持つのではないでしょうか。

社会的罪人でさえそれなりの言動をしていると指摘します。ただ、を挟んで主イエスのご命令を三十五節で簡潔に繰り返します。再度主イエスの命令に聞く者たちを立たせます。敵を愛する、はその通りです。しかし、敵を愛することの絶望的状況がみことばを聞く者たちにはあったでしょう。政治的、宗教的、民族的弾圧下で、敵を敵としなければ身を守れない世界で敵を愛しなさいです。胸の奥を覗き込めば命令はかないそうもありません。

天の父を見よ

その渦中で聞く希望は三十五b、三十六節です。「あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」あなたがたは神の子どもになれます、と語ります。直前に、そうすれば、とあります。条件と聞くことが可能です。他方、そうできるのです、とも受け止められます。そうできるのです、と聞くほうが天父に目を向ける者の姿です。

「天の父があわれみ深いように、」と三十六節でお語りのように、命令に応答する道筋が備えられています。自分ですることではなく、天の父のあわれみによってです。そのようにして敵を愛し、愛するがゆえにことごとく手放しなさい、それも家族、仲間、知人ばかりか、あなたを憎む者、のろう者、侮辱する者、暴力をふるう者、強奪する者にも愛を示しなさいと命令します。

父なる神のあわれみを受けた弟子たちを主イエスは神に目を向けさせます。主イエスご自身あらゆる悪口雑言、迫害に直面し、父なる神に従う苦難の僕となりました。十字架で父なる神のあわれみを生き、現わしました。主イエスの命令は、父なる神のあわれみに生きる、主イエス・キリストの弟子の道となります。主イエス・キリストが宣言された御国で歩む弟子の道です。

蕨キリストの教会 戸村甚栄伝道者

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です